どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

あらためて…国立競技場に「コロナ専門病棟」を! ぼくらが生きる〝新コロ〟後の〝新来〟社会(2)

-No.2677-
★2021年01月19日(火曜日)
★11.3.11フクシマから →3603日
★延期…オリンピック東京まで → 186日
★旧暦12月07日(月齢5.9)

安野光雅さん(1926生、行年94)が昨年末に亡くなった。活躍分野は異なるのだけれど、ぼくたち戦後すぐ世代にとっては1970~80年代の頃、横尾忠則(1936生)の〝ポップ〟と安野光雅の〝癒し〟は自然の湯舟。ぼくらはその間を揺ら揺らさせてもらった…いい時代をありがとう…合掌}

※次回は、1月22日(金)の予定です※




◆「医療崩壊!?」してないでしょ…の声

 「週刊新潮」1月21日号(14日発売)の目玉記事。
 『医療崩壊はしていない ~「神の手」外科医が訴える「コロナの真実」~』
 これは、
 『「菅官邸」崩壊! ~▶「言葉なき宰相」コロナに倒れる▶吹き荒れ始めた「菅おろし」▶「安倍・麻生」主導で解散総選挙の顔は…~』
 『-「演出された医療逼迫」で男優賞を贈りたい!- 「悲壮の仮面」の裏で「コロナ患者」を受け入れない〝顔役〟 ~▶総理を追い込んだ「中川俊男・医師会会長」は開業医の利益代表」▶「尾身茂会長」傘下病院の「コロナ病床」はこんなに少ない!~』
 とセットで、『「コロナ」本当の敵』特集を構成したものでした。

 いまここに、特集記事タイトルを詳細にお見せしたワケは、これを一読しただけで記事内容まで、おおよそは知れるから。
 そのうえで、「神の手」外科医が訴える「医療崩壊はしていない」の記事内容を考察してみます。

 発言者は、大木隆生(58)さん。〝神の手〟とも呼ばれる血管外科の第一人者で、東京慈恵会医科大学(港区西新橋)外科統括責任者、兼、対コロナ院長特別補佐。アルバートアインシュタイン大学(アメリカ)の外科教授でもあります。

◆「ファクターX」がなんであれモンゴリアンは「新コロ」につよい

 大木さんも当初は、新型コロナの感染に警鐘を鳴らし、慈恵医大でもコロナ患者の受け入れに万全の備えを整え待機したそうです。
 ところが、ことは予測に反して、一向に、中国武漢さらには欧米諸国のようにはならず。
 どうやら日本など東アジア人、「モンゴリアン」は「新コロ」につよい…らしいことがわかってきて、その「ファクターX」がナニかはともかく、「ここは医療体制を強化して新コロとの共生(ゼロリスクは無理)を図るべき」と、方針転換しました。

 この「医療体制の強化がだいじ」には、ぼくも同意です。
 「ファクターX」がナンであれ、人口10万人あたりの感染者数や死者数が、欧米にくらべて極端に少ない(約50分の1以下)のは確かだし。
 (ちなみに1月15日現在、世界の新型コロナ死者200万人を超えるなかで日本での死者はケタ違いに少ない4,420人)

 「PCR検査の徹底」にも異論なし…ですが。
 こちらの場合には、検査対象に違いあり。大木さんが「医療や高齢者施設の従事者に定期的な検査を」すべしと言う、のに対して、ぼくは「国民にもできるかぎり早く広く」もとめたい。
 つまり、医療関係者である大木さんは「新コロ医療充実の立場から従事者確保のため」であり、ぼくは「長期にわたる新コロ対応疲労からくるストレス軽減(いうまでもなく後の経済)のためにも国民〝健保(安保)〟がだいじ」と思うからです。

 思えば国内で「新コロ」感染がはじまったときからずっと、日本政府は厚労省を軸に「積極的なPCR検査」を、まるで毛嫌いでもするかのごとくに避けつづけてきました。理由をあげればいろいろと要因がある…のでしょうが、それにしてもこの「冷たい」としか言いようのなさは、あまりに〝異様〟です。

 昨年末に民間の「PCR検査センター」ができて予約殺到の事態になっても、政府は冷ややかな態度を隠しませんでした…が、これこそ政府が万難を廃しても、前非を詫びて率先遂行すべきことでした。

 いまになって想えば…
 あの、国のリーダーとしての発言には、まるで味わいというものがなかった安倍前首相のコトバで唯一、印象にのこるものがあったのは、「〝目詰まり〟があって日本のPCR検査体制の拡充が遅れた」事実を認めたときだけでした。

 そうして…
 これがどうも「PCR検査」のみにはとどまらない、どうやら日本の医療体制全体におよぶ問題であるらしいことを、ぼくたちはヒシヒシと感じはじめています。



◆「医療体制の受け皿を大きく」して「医療崩壊」を防ぐ

 大木さんの主張はソコに尽きます。これにもボクは同意です。
 その主張の根幹は「医療の定義」にある、「医療崩壊」とはどういう状態を指すのかにある、と。
 大木さんの定義する「医療崩壊」は、「救える命が救えなくなったとき(命の選別=トリアージがおこったとき)」と明快。
 一方、いますでに「医療崩壊」の危機、「医療壊滅」を防ごうと訴える日本医師会中川俊男会長の定義は「適切な医療が適切なタイミングで受けられなくなったとき」で、これは違うと大木さんは言う。

 たしかに、中川日本医師会長の定義にも頷けるところはあるようにも思えますが、〈崩壊・壊滅〉といった非常事態のとらえ方としては、やはり曖昧。緩い解釈(言い訳)の余地をのこしてる感、否めません。

◆〝救命〟に直結するICU(集中治療室)

 これなら、素人知識にも心得があります。
「重症化した患者が最終的にICUに入ることができ、人口呼吸器やECMO(体外式膜型人工肺)が使えれば、救える命が救えない医療崩壊の事態は防げる、つまり、死者を極力減らすことはできる」
 と主張する大木さんは、「ICU使用率(50%目安)を指標に」と訴えます。

 じつは、ぼくたち一般庶民も、世界一といわれる日本のベッド数と新コロ患者用ベッド数との乖離の余りの大きさ、そして、なかでも「逼迫」を叫ばれる重症患者用ベッドの少なさには、声を呑んで不安に怯えるほかありませんでした。
 (ホンマかいな!?)(ナニかワケがあるんじゃないのか!?)と…

 以下、大木さんの指摘を数値にして見ると。
 東京都内の、ICUベッド250床に対して使用率129で50%超え(1月10日現在)。
 けれども、この公表されている数値がすべてではなくて。じつは、HCU(準集中治療管理室)もあわせると2,045床ある(全国レベルなら、なんと1万7,377!)。
 もちろん、そのすべてが直ぐに使えるわけではない事情も理解した上で、それでもこの数値なら、少なくとも、とりあえずはホッと胸を撫でおろすことができる。
 
 「これだけあるICUベッド数を、どうしたら活かせるか…を考えるべきだ」と、大木さんは言うわけです。ぼくは同意します。

 日本医師会側の頭には、庶民の緩んだ警戒感をここで締め直しておきたい意向が働いているのでしょう…それは理解できます。でもね…
 この「新コロ」禍で加速した経済格差(弱者の窮迫)もふくめて、危機感まるでないかの如く振る舞う連中、ほんとにビビらせなけりゃいけない相手がチガウ。
 真の敵は、それこそ、まるで〝上級国民〟気どりの政府・議会スジでしょうが!

◆「人間ドック」は〝不急〟じゃないのか…

 こんどの「新コロ」禍で、ぼくたち庶民の「病院ベッド数」に対する認識も、おかげさまで大いに改められました。
 まさか、東京都だけでも10万6,240床もあるという病院ベッドの統計数に、リハビリ用などまで含まれていようとは、思ってもいませんでした(つまり、勝手に別計算なんだろうと思ってましたネ、ぼくなんかは…)。

 大木さんに指摘されるまでもなく、東京都の場合で「新コロ」用に提供されていないICU1,900床余がどうなっているのか、気になるとろです。
 ぼくたちは、これまでずっと、「新コロ」禍のために、ほかの疾患による大きなリスクを抱えた患者の、手術さえ控えなければならないほどの状況が現実だ…とばかり、伝えられてきました。

 実際、現実には、そのように真摯に運営されてきた医療機関が多いのは確かでしょう。が…どうもなかには(なかなか、そうでない)ケースが散見されるのも、どうやら事実らしい。

 いま、このときに「〝不急〟医療といえる、その最たるものが〈健康診断〉と〈人間ドック〉」だと、大木さんは指摘します。
 もちろん、どちらも、すぐにICUに直結する医療行為ではないかも知れない…けれども。ゲンジツに「都内の大半の急性期病院(24時間 体制 で高度な医療行為を行う救急病院)は人間ドックをやっていて、やめた病院を知りません」と、大木さんは言います。
 これは、どういうことでしょう?

◆「自宅〈療養〉は〈放置〉」の状態から「リセットして蘇る」

 「非常事態宣言を医療にも」
 との声も、庶民の間に日々、高まりつつあります。
 大木さんも、まさに、そこを指摘します。

 いま、そこにある医療問題の重大ファクター
 第1は、担当分野による現場格差でしょう。

 これだけ「新コロ」禍の〝緊急事態“が叫ばれながらも、じつは、帰宅もままならないほどガンバっている医師・看護師というのは、感染症関連の…さらにいえば、なかでも責任をもって重症患者を引き受けてきた病院にかぎられ。
 「逼迫しているのは、わずか数%」「日本国内にICUを完備してコロナ患者受け入れ可能な病院は1,000ほどあっても、そのうち受け入れ実績があるのはわずか310」だというのです。
 くわえて新型コロナ診療そのものが、けっして専門医にしかできないものではなく、基本、医者であれば担当科にかかわらず参画できる。
 それには、制度(感染症法)の運用改訂さえあればいい、と。

 これまた、ぼくの実感とチガイません。
 東京都の町田市に住むボクは、お隣り神奈川県相模原市北里大学病院に、心臓疾患の継続診療でお世話になっており。つい先日も通院してきましたけれど、コロナ患者もこれまで重症者は受け入れてこなかったせいでしょうか、院内の雰囲気にこれといった変化は見られず、その〝医療逼迫〟現場の映像とはくらべものにならない隔絶感に、じつのところ愕然たる思いでした。

 そうして、「コロナ診療は報酬(稼ぎ)にならないばかりか、不利(赤字覚悟)でしかないのネ」という現実に、ドンと正面衝突するしかありません。
 入院病棟の掲示などに「ベッド稼働率」の数字を見かけることがあり、関係者の話しでは80%が採算ラインとか。
 そこにボクたち患者側は、医者はエリート高所得者というイメージとは別な一面と、もうひとつ、同じコロナ対応でも医師と看護師との所得格差など、厳しい現実を嗅ぎとることになります。

 そうして、いずれにしても。
 「自宅〈療養〉は〈放置〉」にすぎない、いま現在の最悪状態から脱するには、微調整などではとても間に合わない、思いきった「リセット」でしか蘇れない…という事実です。 

 つまるところ…
 医療問題の重大ファクター第2は、これしかない。
 

◆現場の費用対効果と医療制度の根こそぎ(抜本)改革

 いま現在、日本医療の「新コロ」対応の〝弱点〟も〝欠陥〟もハッキリしてます。
 〝弱点〟は、国公立病院にしても、民間病院にしても、コロナ患者を受け入れれば医療体制に無理や歪〔ひず〕みが生じ、民間の場合には大赤字というキビシイ経営問題もおきる。

 大木さんも、「民間病院は経済的なインセンティブ(報償金)で導き、経営トップが政府筋や自治体の長である公的病院は政治力で動かす」必要がある、と指摘します。
 そのとおりに、ぼくも思います。
 キッチリそう思いきれば、方策をうつ手はいくらでもあるはず。

 どちらにしても、〝金目〟でケリをつけるしかないわけですが。
 どちらの場合にも、高いハードルとなっている決定的な〝欠陥〟があります。

 それは、充分な医療効果を上げるのに、いまの「新コロ」×「一般」病床混在の状態では〝効率〟がワルすぎる、ということです。

 コレしかない!
 最上の方法は、いうまでもない「新コロ専用病院・病棟」をつくること。



◆国立競技場にコロナ専用病棟を!

 東京都は13日になってやっと、都立広尾病院(渋谷区)、公社豊島病院(板橋区)、公社荏原病院(大田区)を、実質的な「コロナ専用病院」にする方針を示しました。
 これで、これまでに受け入れてきた実績とあわせ、重症者計約25人を含む計約700人の受け入れが可能になったわけで。スムースな移行が進むことを祈らずにはいられませんが…。
 それにしても、これでも重症者ベッドは25にすぎない。

 入院待機や、「自宅〈療養〉=〈放置〉」状態にある患者の数を考えれば、とてもたりません。

 あとは、もう「コロナ専門病院・病棟」の新設しかありません。
 前に、中国武漢の例にならって日本にも「専門病院を!」との声はあったのです、けれども。なぜか、よくよく議論もしないままに「日本では無理」と、結論づけられてしまいました。でもね…

 ほんとに「できない」こと、なのか。
 もういちど蒸し返したいと、ぼくは思う者です。

 国立競技場のフィールドと選手村建物を利活用して、ぜひ「コロナ専用病棟」を。
 あわせて、全国にさきがける「中央PCRセンター」を皇居前広場

 「オリンピックが…」という向きもあるでしょうが。
 もう、すでに、いまの状況での開催は80%以上、国際的にも国内民意としても無理な状況、知れたことです。

 オリ・パラの開催中止は、スポーツ愛のボクにも断腸の想い。万感こめてザンネンです、けれども。
 よ~く考えてほしい。
 人の命よりオリンピックか。人の命あってのちのオリ・パラじゃないのか。

 ウイルスによる感染症は、今後ますます増えていく状況、「地球温暖化」にも劣らないほど深刻なこと…疑いなく。
 「新コロ」禍がおさまったら元どおり…なんて楽観は、てんで甘すぎる。

 想えば…
 これまでの日本は、戦争でしか、国際的に先手や積極策をとったことがなかった。
 なるほど痛手にちがいないけれども、いまこそ勇気をもって「開催中止」の申し出を。その果断をもって逆に、これまでには得られなかった国際的な評価を見直させるチャンスに。
 したいし、しなけらばならない、と思う。

 オリンピックという、ザンネンながら肥大化しすぎてしまったイベントそのものが、これから先、どこであれ無事に開催されつづけていくこと自体が、極めてむずかしいことも明らかです。