どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

「合掌造りの里~五箇山~」 / 『よみがえる新日本紀行』とともに…➃

-No.2589-
★2020年10月23日(金曜日)
★11.3.11フクシマから →3515日
★延期…オリンピック東京まで → 274日
★旧暦9月07日(月齢6.3)、上弦の月

※「新コロ」感染者が世界で4,000万人を超えた。それに比べるとニッポン(を含む東南アジア圏)の少なさが際立つ。これにはやっぱり、なにかしら特異な事情「ファクターX」があるとしか思えなくなってきた。




◆愛しき「端っこ線」

 16,000km「片道最長切符」鈍行列車の旅。
 枕崎駅(鹿児島県)を出発してから25日目のボクは、本州のほぼ中ほど、日本海側を北上して能登半島に立ち寄っていた。
  ……………

【註1】国鉄「片道最長切符」の旅
*1
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 前日に、北陸本線の「津幡〔つばた〕」駅(石川県)から、七尾線に乗り換えて能登半島に入り、終着駅「輪島」で一夜を明かしている。
 その折りの記事は9月14日付け既報「波濤の太鼓~奥能登・外浦~ / 『よみがえる新日本紀行』とともに…➁-補遺-」のとおり。
blog.hatena.ne.jp
 ……………

 ここで
 鉄道の旅に詳しい方なら(えっ…それってオカシイんじゃないの?)と、思われたかも知れない。
 そう。「片道最長切符」の旅というからには、〈線路はつづく〉のが基本中の基本のルールだから、スタートとゴールを除けば終着駅を通ることなど、ありえない。

 そのとおりなんだ…けれども。
 時刻表と大学ノートを机上に広げ、あれこれ「片道最長ルート」探索の試作と計算を繰り返すうちに、ぼくの頭のなかには、数ある〈一方でしか他の線路と繋がらないローカル線〉、終着駅でレールが途切れる〈片道〉路線(〝盲腸線〟などとも呼ばれた)のことが俄然、気になり出した。
 「終着駅」は「始発駅」でもあるのだが、こころ揺さぶられる響きとなれば、なぜか断然「終着駅」である。
 それとも、「行き止まり」の胸騒ぎは、男だけのものなんだろうか……

 そういうわけで、苦労してようやく「これぞ片道最長ルート」が確定できたとき、ぼくは、ボクが手にするボクだけの「片道最長切符」の旅は、有効日数65日間をめいっぱい使おうと思い決め。同時に「鈍行列車(=普通の各駅停車)で行く」こと、そして、胸騒ぎな存在の「端っこ線」にもできるかぎり「寄り道」をして行くことに、決めた。
 「寄り道」区間への旅は、その都度、別に切符を買えばいい。
 そのために嵩むことになった旅費を稼ぐために、ぼくはガンバって働いた。
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 ちなみに、この25日目のルートを辿ってみると、
 輪島-七尾線-穴水-能登線蛸島〔たこしま〕(※能登線/往復)-穴水-七尾線、※ここまで寄り道区間-津幡-北陸本線-富山-高山本線-高山(泊)

 この日の旅の途中、北陸本線の「高岡」駅(富山県)からは、内陸山間部へと向かう「端っこ線」城端〔じょうはな〕線というのがあって(この線はいまも健在)。

 その終着「城端」駅から、さらに奥深く。
 1日にごくかぎられた便数の、バスに揺られてやっと辿り着く先に、じつは〝陸の孤島〟と呼ばれる秘境「越中五箇山」があった。
 ……のだが……








◆「五箇山」は遠すぎて深すぎた

 日本地図の中部・北陸あたりを見てほしい、あるいは道路地図なら、もっとわかりやすいかも知れない(ざんねんがら時刻表のデフォルメされた地図では事情がハッキリしない)。

 ぼくが、このときは結局、秘境「越中五箇山」行きを諦めなければならなかったわけは、さらに、もうひとつあって。
 それは、もし、五箇山富山県)を越えて白川郷岐阜県)までバスで行ってしまうと、その先には、また別の「端っこ線」越美南線(現在の長良川鉄道)が待っていて、いずれ高山本線に合流してしまう…それはコマルのであった。
 (こんな困り方は滅多にない!)
  ……………

 そうして、このときは無念の涙を呑んだ秘境「越中五箇山」へ。ぼくはその後、縁あって度々、訪れるチャンスに恵まれたのだ、けれど。
 たびたび「ようこそ遠路はるばる」と迎えられた、そこは…あらためて「陸の孤島」そのままであり、「片道最長切符」の旅の範疇からは遥かに逸脱した存在であることを、思い知らされた想い出の秘境……

 その想い出をふくらませたテレビ番組が「新日本紀行~合掌造りの里・富山県五箇山」。放送は1970年(昭和45)のことだった。
  ……………

【註2】『新日本紀行
*2
  ……………

 その放送内容は驚くべきことに、半世紀後のいまも大勢に変わりはない。
 屋内の暮らしぶり…たとえば座敷のテレビとか、台所設備の〈しつらえ〉とかが新しくなっても。集落全体で年に一度、防火訓練の大掛かりな放水に観光客の歓声が沸くことはあっても、「合掌造りの里」は変わりようがなかった。

 はじめこそ、クギ1本つかわずに建てられた茅葺木造4層、急勾配の三角屋根構造の、モノ珍しさにイタく圧倒されたボクも。その内部の仕組みや暮らしぶりの詳細、冬はそれこそ〝陸の孤島〟になるしかない深い雪に閉ざされる生活を想うと、とても「ブラボー」とは言えなかったし。
 ましてや異国のブルーノ・タウト『日本美の再発見』のごとく、単純に賛美もできないものがのこった。

 ぼくたちの青春時代は、戦後の復興期とはいえ、各地方から「集団就職」の列車に揺られて上京する若者たちにとっての田舎は、(なんとか逃れ出たい因習の)古里なのであった。
 しかも入母屋合掌造りの茅葺屋根は、30年くらいに1度は、集落総出「結〔ゆい〕」の協力を得て行わなければならず。そのために集落中の家は皆、裏山の斜面に「茅場」と呼ばれる屋根材の収穫場をもって、農耕とはまた別の作業にも、あたらなければイケナイ。
 
 ぼくは五箇山を訪れるときにはいつも、その前にはかならず、合掌集落の全景を望める高台に立って見ることにしていた。神仏に参詣するのにも似た気分…といっていい。そうして帰りにはまた、同じ高台に立って別れを告げる…そのときに感ずる〝旅情の落差〟を忘れないように、シンと胸に刻みつけることにしていた。
  ……………

 ともあれ  
 ぼくが、この『新日本紀行』という番組を懐かしく、感情移入ゆたかに観るわけは…そこには紛れもない若き日の青春とその後が綯い交ぜになって投影されていたから。それで、想い出ぽろぽろ、なのであった……




*1: むかし「乗り鉄」の憧れ。現在「JR」の旧国鉄時代。列島の国鉄全線を対象に(航路も含んで)端から端まで、「一筆書き」の〝片道最長〟を記録する旅遊びがあって、「全線完乗」と並ぶ究極の〝乗り鉄〟チャンレジだった。つまり、二度と同じ駅・経路を通らずに行くかぎり、1枚の切符にすることができた。このルールを最大限に活用して挑むのが「片道最長切符」という、超贅沢の夢世界。新しい鉄路が生まれる(誕生したり延伸したりする)たびに、記録更新の可能性も更新された。  ぼくが、小出-会津若松135.2kmの只見線(新潟・福島)の全通を待って、当時の新記録を達成したのが、1972(昭和47年)5月15日から7月18日にかけて。枕崎駅指宿枕崎線、鹿児島県)から広尾駅広尾線=現在は廃線、北海道)まで、切符通用日数の65日間をかけて、総距離1万2771.7キロ(当時の国鉄営業キロ2万890.4キロの約61%)。なお、コース外の線区にも〝寄り道〟乗車した分を加えると、1万6027 .8キロ。地球の赤道直径と全周の1/3を超える〈鉄旅の人〉になった。  その間の駅数2848(総数3493)、切符の運賃2万7750円(寄り道分を除く)。これは、いまでも「安い!」と思う…けれど、その頃、まだ若かったボクには大金。ちなみに、この旅の泊まりはほとんどが駅の待合室。それが許されたイイ時代でもあった。

*2: NHKで、1963年から1982年までの18年半の間に、制作本数計793本という記念碑的な番組のひとつ。日本の細やかな地域風土を紹介する紀行番組の草分けで、その紀行精神は、後の『新日本風土記』(2011年春からBSプレミアムで放送)に受け継がれている。  あの頃をふりかえると、この『新日本紀行』につづいて民放では日本テレビが、当時の国鉄キャンペーン『ディスカバー・ジャパン』とタイアップするかたちで 1970年(昭和45)から『遠くへ行きたい』をスタート…いまから想えばセンチメンタル・ドリーミーないい時代。  この『新日本紀行』でとりあげた日本各地をもう一度訪れ、当時からその後の歴史をふりかえって紹介しようと、新たに始まったのが『よみがえる新日本紀行』の取り組み。新日本紀行の制作は、16mmフィルム撮影(VTR=ビデオテープ録画ではない)で行われたおかげで、フィルムライブラリーに記録がのこった、昔のものでは珍しいケース。1967年からはカラー放送になっていたものを、2018年から、高精細の4K画質に変換・制作、ハイビジョン放送されている。