どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

『東京流れ者』口遊みつつ…「西新宿」をさすらう/ 東西自由通路から新宿中央公園まで

-No.2586-
★2020年10月20日(火曜日)
★11.3.11フクシマから →3512日
★延期…オリンピック東京まで → 277日
★旧暦9月04日(月齢3.3)





◆70年安保の新宿よみがえる

 なにごともない日常は貴〔たっと〕い。
 「新コロ」禍の日々が、おしえてくれた。…が、また…
 そんな日常は感性を鈍くすることも、「新コロ」禍がおしえてくれたこと。

 そんなわけで
 鈍りかけた感性とりもどそうと、出かけた新宿、ひさしぶりの東口に立ったとき、ぼくは、青春時代に嗅いだ新宿の汗ばんだ匂いを嗅ぎ、いつもナニかしらザワついていた街の音を遠く聴いて…目を上げた。
 
 人には、さまざまな感慨をこめて(なにか心うごかされることがあって)「天〔そら〕を仰ぐ」ことと、別にもうひとつ、似通った感情ながら心根にはより湿りけの濃い気分で「宙〔そら〕を見つめる」ことがある。

 そのときのボクは「宙を見つめた」…のだが、そこに「空」はなかった。
 (それでいい、新宿はいちばん地下の似合う街だった)

 この7月、開通したばかりの「東西自由通路」に脚がむく。
 まだ飾りっけのない化粧前の、ナンの変哲もない通路だったが、広さだけはたっぷりあって(あの頃のまんま…)。
 ぼくの想いは「新宿西口地下広場」の頃へと翔けもどる。
  ……………

 ときは60年代(新宿西口地下広場は61年にできた)も末の、70年安保を翌年にひかえた69年(昭和44)。「フォーク・ゲリラ」のシング・アウト群衆と機動隊との衝突で騒然とした時代があった。
 代表的なフォーク・ソングは岡林信康の『友よ』だったけれど、高田渡の『自衛隊に入ろう』も新宿では好んで唄われ、ノンセクト・ラジカル派に属したボクには、この唄の歌詞の、ゲンジツを遊離して浮いた違和感がいまも胸に刻まれている。
 
 当時の世相を震撼させた大事件、三島由紀夫自衛隊市ヶ谷駐屯地・総監室を占拠、クーデター決起をうながしたものの果たせず自決するのが、その翌くる70年(昭和45)…という時代背景。
 66年に完成していた新宿西口地下広場には、大型百貨店や地上バスターミナル(新宿駅西口バス乗り場)も新たに整備され、いま見る新宿駅西口の風景の基礎を作ったものだった。
 記憶は薄れたけれども、少なくとも、いまも、その頃の臭いは、そこここ嗅げる。

 あの頃の唄で、いまも、ときおり脳裡に泛ぶのは…
  〽流れ流れて 東京を
   そぞろ歩きは 軟派でも
   心にゃ硬派の 血が通う

   花の一匹 人生だ
   ああ 東京流れもの
   (※太字は筆者註)

 『東京流れ者
 有名なのは同名の映画(66年、鈴木清順監督)主演、渡哲也が唄った主題歌だったが。上記の歌詞は竹腰ひろ子盤(作詞、永井ひろし)。なお、この唄の原曲は作曲者不詳の伝承歌で、ほかにもいくつか別の歌詞がある。

 ぼくは、『東京流れ者』を低く口遊みつつ西口へと歩む。





新宿中央公園までのタウン・ウォーク

 そのまま、なにげもなく西口地下通路(中央通り下)。
 しばらく歩いて(なんでや…)、気がつけば都庁方面を目指す人の流れにのってしまっているのが、吾ながらオカシくて。
 モード学園が入るコクーンタワーまで来て、地上に出、斬新な彫刻的設計が特徴の高層ビルを仰ぐ。

 都民ではあっても、日ごろ、お国ほども大きな都庁まで赴くほどのこともなし。ましてやボクは、23区外の多摩地区に住む。

 コクーンタワーから新宿センタービル、三井ビル、リニューアルした住友ビルには大きなイベントスペース「三角広場」ができていた。

 やはり、この7月に開通したばかりの「東西自由通路」が、歌舞伎町などの繁華街をかかえる東口と、オフィス街の西口とを結んで〈地つづき〉になったことが、空気の流れにも人の流れにも大きかったようだ。
 これまでは〈自己完結型〉な、それぞれの超高層ビルが独立(孤立)するイメージだった〝垂直の街〟が、横のつながりをもつようになった、と関係者はいう。

 たとえば、いちばんに注目され、期待もされる災害時の対応。
 最大で約29万人の帰宅困難者が予想される西口のエリア内の人を、オープン・スペースを受け皿に活用の方針。住友ビルの三角広場には3,850人を受け容れる用意がある、そうな。

 都庁ビル群を左手に見て、公園通との交差点を渡ると。
 目の前には、とても副都心に在るとは思えない、広大な広がりの芝生広場。広さはおよそ8,500平方メートルという。
 その日は週明けの月曜日だった…けれども、折よくランチタイムどき。これまた7月にオープンしたばかりという園内には、カップルや家族連れが思い思いに輪をつくり、弁当を広げたり、そぞろ歩きの散策を愉しんでいる。
 
 園内に開業した交流拠点施設「SHUKNOVA(シュクノバ=宿場町の緑側空間)」には、フリー・ユースのテラスや飲食店にくわえて、フィットネスクラブまでできていたのが、まさしくいま風。
 この空間を見るかぎり、「新コロ」の翳りなど皆無であった。
  ……………
 
 想えば、いまある超高層ビル街「新宿副都心」の、都市計画事業がスタートしたのは60年(昭和35)。
 かつて、この辺りには玉川上水を引き入れた東京水道の要、「淀橋浄水場」がデンと腰を据えていた。明治政府が目指した近代化の目玉、水道インフラの充実は都市衛生の将来を約束するものでもあったのだ。

 その「ヨドバシ」を名乗るカメラ量販店(現在はマルチメディア量販店)が、いまも西口駅前に拠点を置いている。
 チェーンストアのどの店舗も駅前に立地する、「レールサイド戦略」と呼ばれる商法も健在であった。