どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

「鯉の住む町~津和野~」 /         『よみがえる新日本紀行』とともに…➂

-No.2561-
★2020年09月25日(金曜日)
★11.3.11フクシマから → 3487日
★延期…オリンピック東京まで → 302日
★旧暦8月9日(月齢7.7)






◆〝鉄道員〟の系譜

 ぼくは、根っからの〈旅の人〉。
 その後半生はマイカー・ドライブで全国を駆けまわり、運転歴42年、走行距離は35万km(地球の赤道一周が約4万km)を超えている。

 …が、鉄道が現在のように〝不便〟(いうまでもない地方交通線において)になるまでは、もっぱら〈鉄旅の人〉。
 そんなボクの、モノクロームな心象風景に濃い、ひとつの場面がある。
  ……………

 その人には、勤めから帰るとかならずキマった行動があって。まず、おもむろに、いまや愛用というよりすでに分身といえる懐中時計を、3つ揃い背広のチョッキ胸ポケットから執り出すと。時間を確認してから床柱に銀鎖の先を掛けて吊るす。懐中時計はスイスのロンジン。その厳格な作法のために、床柱には専用の釘が打ちつけられてあった。滅多なことでは、その頑固な風貌そのままの表情をくずすことなく、なかでもとくに時間にはキビシくて、約束に遅れるようなことがあれば頭を握り拳でコツンとやられ。その痛さが、また、ひどくこたえた。
 その人、母方の祖父は、国鉄鉄道員。かつての国鉄職員には〝全線パス〟(日本全国無料パス、家族には原則5割引の家族割引証もあった)という、子どもごころに燦然と輝く〝特典〟があって、いちどだけボクも拝ませてもらったことがある。
 この「お爺ちゃん」は、ときどきにわが家を訪れては、外孫のボクたち姉弟を連れて川崎から、母の実家がある東海道線藤沢駅までの小旅行をさせてくれ。なによりの楽しみは横浜駅で買ってくれる崎陽軒の「シウマイ弁当」で、これを食べながら揺られて行くのが定番であった。
 晩年とはいえ、まだ蒸気機関車全盛の時代。横浜駅では、銀のツバメ・マークをフードに光らせたC62形蒸機が特急「つばめ」を牽引、ホームを揺らせて入線してくるドキドキ場面に遭遇してもいる。
  ……………

 こんな育ちだったボクたちが、おそらくトロッコ遊びに親しめた最後の世代であったろう。憧れいちばんは、蒸気機関車の運転手。手近なところでふだんは、機関車に添乗して誘導する「旗振り」に熱い視線を送っていた。

 そんな幼・少年期を経て、しぜん旅に目覚めたボクは「乗り鉄」に邁進。
 それが昂じて、当時の国鉄「片道最長切符」チャレンジャーになったのも、自然の成り行き。電卓もパソコンもないアナログな時代に、時刻表と鉄道路線図を相手に「最長ルート」づくりに熱中した日々が、いまは懐かしい。
  ……………

【註1】国鉄「片道最長切符」の旅
*1
  ……………

 そんな「片道最長切符」の旅と、即〔つ〕かず離れずにあったのが、NHK『新日本紀行』という番組。
  ……………
 
【註2】『新日本紀行
*2
  ……………

 いまは『よみがえる新日本紀行』に衣替えしている。
 ぼくが、この番組を懐かしく、感情移入ゆたかに観るわけは…そこには紛れもない若き日の青春とその後が綯い交ぜになって投影されているから、にほかならない。恥ずかしいくらい、想い出ぽろぽろ。
  ……………

 そんなアレコレ噺の、3回目は西の小京都、津和野。




◆なぜか「津和野」だった

 ぼくの16,000km、鈍行列車「片道最長切符」の旅。
 5月15日に枕崎駅(鹿児島県)を出発してから11日目、やっと九州「往ったり来たり」を終えたボクは、関門トンネルを潜って本州入り。
 下関(山口県)では、「肥後もっこす」人吉で産れた大学時代の友と再会、駅待合室を離れて彼の家に泊めてもらい、翌日は勝手に「休養日」。奥さんに車で県都山口へ、雪舟邸や瑠璃光寺五重塔などを案内してもらっている。
 山口がいたく気に入った(湯田の温泉のせいかも知れない)らしい彼は、新聞記者を退職後、いまもここに住む。
  ……………

 こうして、中1日おいて13日目の旅。
 その日も、しっかり各停(各駅停車の普通列車、俗にいう〝鈍行〟)の列車に揺られ、停車する各駅のホームに降りては、駅名板をカメラに納めていくという、ぼくなりのその土地々々への〝仁義〟を尽くしながら、車内で土地人たちとの交流を愉しんでいた。
 
 この日のルートを辿ってみると。
 下関-山陰本線長門市美祢線-厚狭〔あさ〕山陽本線-小野田-小野田線-居能-宇部線宇部山陽本線-小郡〔おごおり〕山口線-津和野
 なお、これらの線は、いずれも現存。

 わざわざ、そう言うワケは、このとき(昭和47年=1972)はJRの前身〈国鉄〉時代の終盤。そろそろ赤字地方(ローカル)線廃止の動きがはじまる頃で、実際、このあと廃線になった鉄路・航路が多く、いまでは同じルートをたどることができないからだ。

 ともあれ
 そんなこともあって、ぼくの「片道最長切符」の旅は少しく注目も集め。この日も途中、小郡の駅では駅長さんから「国鉄を愛してくださってありがとう」と、土地のお土産を戴いたり。

 そんなこんなで、暮れかける頃に乗り換えた山口線
 カエルの合唱のなかを行く、その車内でまた、ぼくにとっては、ほとんど奇跡的な出逢いが待っていた。

 国鉄に勤続33年というベテランの車掌さん、ちょうど勤務あけで帰宅する方と相席になり、話しが盛り上がるうちに「どうぞ、家へお泊りなさい」ということに。
 盛り上がったわけは、いうまでもなくボクの「片道最長切符」。この頃までの国鉄マンといえば、皆さん根っからの鉄道好き(…でも、現役時代に〝全線パス〟を利用するチャンスは滅多になかった)。
 したがってこの旅の途中、出逢った車掌さんのほとんどが、ぼくのキップに興味津々。なかには、券面にびっしり書き込まれたルートを「メモさせてください」という人もいあったくらいで…。

 そうして
 この車掌さんの、帰るお家が「津和野」だったことが、ぼくにとっては〝奇跡〟でしかなく。こんな奇遇に、かさねて「家へお泊りなさい」と誘われたら、もう、辞退なんかできるわけがなかった。

 この65日間の旅では、1日の泊まりは駅の待合室のベンチ、風呂はあれば近くの銭湯へ、が基本。いうまでもない、理由は旅費の節約。ついでに時間の節約にも、駅待合室ほど都合のいいところはなかったのだ、が。
 そんなことが許され、また、このときのように見ず知らずの者を、わが家へ「一夜の宿り」を誘ってくださる方もあったり…という、ホントにいい時代だったとしか、いまはいいようがない。

 この旅の朝は、いつもなら洗面・自炊朝食のあと、時刻表で1日のスケジュールをたてることからスタート。寝袋に入る泊まりの駅は、まだ未熟ながら、それまでに蓄えた知識と情報を頼りに、あとは感性におまかせだった。
 
 …で、その日の泊まりが、ぼくの予定でも「津和野」になっていた。
 それは、なぜだったか…

◆水路に鯉が泳ぐ、清々しい町

 そのもとが、じつは『新日本紀行』にあった、わけで。
 このたび、4Kリマスターに衣替えした映像の「鯉の住む町~津和野~」編、もともとの放送があったのは昭和46年(1971)。ぼくが「片道最長切符」の旅に出る、直ぐ前のことだった。

 「西の小京都」と呼ばれる町の紹介は、しっとりと、淡々と、ごく素直な案内記ふう。…となれば、うっかりするとタイクツになりかねないところだ、けれど。
 このときのボクは、それこそ針にかかった鮎のごとく、グイッと惹き寄せられてしまっていた。
 ひとつには、津和野のキーワードは清流。町域を流れる高津川は日本でも有数の、ダムがひとつもない清流だったし。いかにも小京都らしい、漆喰なまこ壁の武家屋敷が並ぶ石畳の殿町通り界隈には、掘割にこれも水清き流れがあって…。

 ぼくは、なにしろ〝水清き流れ〟がなにより好き。
 すぐ民家の脇を水音高く流れるほどの川より、むしろ小さな水路くらいのほうが好ましく。さらには、水音がするかしないかくらいの、ほどよく、ゆるい坂道になっていればなお佳く、ついでに水車なんぞがあってくれれば言うことなし!

 津和野、殿町の掘割に水車はなかったが、かわりに緋鯉が彩り添えて群れ遊び。おまけに地名の起源が「つわぶきの」なんてのも、じつに気がきいていた。
 映像を見きわめる目にはいささか自信のある、ぼくの感性が「いいね、いい町だね」と呼びかける。
 
 『新日本紀行』の画面は、ほかにも、鮎料理を語り、森鴎外西周(哲学者)の旧宅、太鼓山稲荷神社などを巡り、津和野の代名詞にもなってきた郷土芸能(国の重文)「鷺舞」(7月末の祇園祭で披露される)などが紹介されたのだ、けれど。

 ぼくの頭はボンヤリ…鯉の群れ遊ぶ水清き掘割の水路と、その流れに沿ってつづく、ほのぼのと和みに満ちた町すじを、いつまでも、ひとり、追いかけ。
 そう、すっかり抱きすくめられていた。

 どなたにも、経験がおありだろう。
 ひとつひとつの町や村との、ふしぎな出逢い、沁みとおる感性へのアプローチに、リクツなどない。

 そんな津和野へ、初対面の土地人に招かれての、一夜の宿りであった。
  ……………

 しかし、それも
 もう遠い日の、想い出のひとこま。
 いつしか音信もとぎれて、気がつけば久しさも長きにわたる半世紀後だったわけだ、けれども。

 いまも、その〈帰郷〉の夜にも似た歓談のひととき、忘れがたく。
 不意の来客にも「まぁ息子が帰ったようでね」と、もてなし上手な奥さん。「生きていれば貴方くらいの年恰好ですよ」と亡くなった孫息子の想い出に涙ぐむお婆ちゃん。高校生のひとり娘も、「お兄ちゃんみたいな気がする」と遠慮ない笑顔で迎えてくれて。夜遅くまでボクの盃に酒をきらさず、親身に、年の離れた兄のように語りかけてくれる国鉄マンのお父さん。
 外は小雨降る静かな晩…。

 この旅のあとに書いた本のなかで、ぼくは涙もろくも述懐している。
「うれしいけど、せつない。ありがたいけど、すまない感じ。旅の身がつらい。いっそ居ついてしまおうかとも思うが、しかしオレはやっぱり旅人。(これ以上の迷惑をかけちゃならない)と思いなおす。だからよけいに(大事にしなければ)と思う。」
「旅に出ればそのたびに、人とのつながりがふえていく。その一つ一つをたいせつにしていくこと。ぼくにはそれしかできない。」
  ……………

 翌くる早朝の清々しい津和野慕情は、ぼくに「箱庭のような町」を想わせ。
 民家の間の路地から路地へ、めぐる水路にはたくさんの鯉が泳いで。
 折からの日曜日、近所の子どもたちが習慣になっている道の清掃、通行人には見知らぬ相手であっても「おはようございます」と挨拶をする…と。
 そのあとの道には塵ひとつ落ちていない、ほっと胸キュンの散歩のひととき。
 
 そんな町に、似合う乗り物は、いうまでもない自転車(これは、いまでも変わらないでしょう)。
 ぼくも、駅前にある貸自転車を借りて、娘さんに町を案内してもらって、上記したような町なかの名所を見てまわったのだ…けれども、いまはもう、ぽつぽつと淡い点景くらいにしか覚えていない。

 旅人のはずが、すっかり旅を怠けて。
 昼までご馳走になり、おみやげに郷土銘菓の「源氏巻」までいただいて、やっと午後の列車で舞い戻った旅の空。
 赤茶色の屋根瓦が、ほほ笑むような山陰路へと、もぐりこんで行った。
   ……………

 そのときから、ほぼ半世紀ぶりの、津和野。
 番組は、そんな津和野の〝いま〟を、あれこれ伝えてくれたのだった、が。
 「ぼくの津和野」慕情の前には、ごめんなさい、ただ「なんのお変りもございませんで、ようございました」であった。
 
 
  

 





    

*1: むかし「乗り鉄」の憧れ。現在「JR」の旧国鉄時代。列島の国鉄全線を対象に(航路も含んで)端から端まで、「一筆書き」の〝片道最長〟を記録する旅遊びがあって、「全線完乗」と並ぶ究極の〝乗り鉄〟チャンレジだった。つまり、二度と同じ駅・経路を通らずに行くかぎり、1枚の切符にすることができた。このルールを最大限に活用して挑むのが「片道最長切符」という、超贅沢の夢世界。新しい鉄路が生まれる(誕生したり延伸したりする)たびに、記録更新の可能性も更新された。  ぼくが、小出-会津若松135.2kmの只見線(新潟・福島)の全通を待って、当時の新記録を達成したのが、1972(昭和47年)5月15日から7月18日にかけて。枕崎駅指宿枕崎線、鹿児島県)から広尾駅広尾線=現在は廃線、北海道)まで、切符通用日数の65日間をかけて、総距離1万2771.7キロ(当時の国鉄営業キロ2万890.4キロの約61%)。なお、コース外の線区にも〝寄り道〟乗車した分を加えると、1万6027 .8キロ。地球の赤道直径と全周の1/3を超える〈鉄旅の人〉になった。  その間の駅数2848(総数3493)、切符の運賃2万7750円(寄り道分を除く)。これは、いまでも「安い!」と思う…けれど、その頃、まだ若かったボクには大金。ちなみに、この旅の泊まりはほとんどが駅の待合室。それが許されたイイ時代でもあった。

*2: NHKで、1963年から1982年までの18年半の間に、制作本数計793本という記念碑的な番組のひとつ。日本の細やかな地域風土を紹介する紀行番組の草分けで、その紀行精神は、後の『新日本風土記』(2011年春からBSプレミアムで放送)に受け継がれている。  あの頃をふりかえると、この『新日本紀行』につづいて民放では日本テレビが、当時の国鉄キャンペーン『ディスカバー・ジャパン』とタイアップするかたちで 1970年(昭和45)から『遠くへ行きたい』をスタート…いまから想えばセンチメンタル・ドリーミーないい時代。  この『新日本紀行』でとりあげた日本各地をもう一度訪れ、当時からその後の歴史をふりかえって紹介しようと、新たに始まったのが『よみがえる新日本紀行』の取り組み。新日本紀行の制作は、16mmフィルム撮影(VTR=ビデオテープ録画ではない)で行われたおかげで、フィルムライブラリーに記録がのこった、昔のものでは珍しいケース。1967年からはカラー放送になっていたものを、2018年から、高精細の4K画質に変換・制作、ハイビジョン放送されている。