どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

ちょっとヒトコト…フタコト…ミコト ~No.101~  現代はじめに耀いたスターたち③マリリン・モンロー

-No.2415-
★2020年05月02日(土曜日)
★11.3.11フクシマから → 3341日
★延期…オリンピック東京まで → 448日
★旧暦4月10日
(月齢9.0、月出12:23、月没01:37)





★「モンロー・ウォーク」のマリリン★

 なにしろ〝圧観”…アゼン…
 ボム・ボム、ユサ・ユサ、ズン・ズンと、大きく腰を振って歩く後ろ姿を追うムービー・カメラ。
 (この頃はカメラも、ドデカくてバカ重かった…)
 のちに「もっとも長いウォーキング・シーン」と呼ばれた場面は、マリリンをスターダムに伸〔の〕し上げることにもなりました、が。

 その映画『ナイアガラ』アメリカ、ヘンリー・ハサウェイ監督、共演ジョゼフ・コットン)が公開されたのは1953年。26年生まれのマリリンは27歳。
 前回、ジェームズ・ディーンのところでも触れましたが、その頃のボクは、まだ8歳のガキんちょ。
 マリリンにもまた、東京の私学中学校に通い始めてから、リバイバルのスクリーンで衝撃の出逢い…でした。

 ただ、同性のジミー(J・ディーン)との場合は肩を組みあう輩〔ともがら〕だったのにくらべて、異性のマリリンは乗り越えなければならないボリューム膨大な砂丘のようで…そこが根底的に違っていました。

  ……………

 占領軍アメリカの兵隊や軍属の数多くが、仮に移り住んだ首都圏。
 横浜に近いボクたちの町川崎にもカーキ色の軍服は珍しくなくて、なかでも想い出につよく焼き付いているのが、彼ら大柄で脚の長い男たちの歩く姿。
 後ろに立つと目の前に、蹴り飛ばし甲斐のありそうな尻がある…黒人兵のリズミカルな歩きっぷりに憧れ惚れて、ガキどもは皆、操りみたいに妙ちくりんな格好つけてマネたもんでした。

 近所のガキんちょどもは、兵隊の姿を見れば「ギブ・ミィー・チョコレート」と集〔たか〕った…けれど。
 「それだけはするな」と禁じられていたボクは、かわりに闇市で駐留軍放出品のチョコを買ってもらい。
 1個1個銀紙に包〔くる〕まれたそれは、いざ口にしてみればヤケにバター臭い味がしましたっけね。

  ……………

 マリリンのモンロー・ウォークを見た途端に、ぼくの連想はその「アメリカ臭いチョコ」に飛びました。
 「惑わされるなよ、若ぇの」ってわけです。

 それ以降、ミュージカル・コメディー紳士は金髪がお好き(53年ハワード・ホークス監督)、ロマティック・コメディー『百万長者と結婚する方法』(53年ジーン・ネグレスコ監督、ローレン・バコール共演)とたてつづけに、マリリンの主演作に、どっぷり。

 想えばその頃の…
 第二次世界大戦後の飢えた世相に、性的魅力を前面におしだしながら、「ちょっとお頭〔つむ〕のたりない金髪美人」が猛アピール、マリリンを当時のセックスシンボル最高峰に君臨せしめました。
(〝人気〟とか〝流行り〟なんてのも、ホント奇妙な、オカシナ心理ではあります…ねぇ!)

 映画雑誌や、映画館で買う作品紹介パンフで知れた彼女の来歴。
 ピンナップモデル・デビューにナットクしない人はなかろう…と思われます、けれども。
 ぼくは始めから、あのマリリンの豊満な姿態と、紳士(…というより野郎ども)相手に媚を売る表情の裏に、いつも同居している心寂〔うらさび〕しさが痛々しかったのを、いまも忘れません。

 孤児院と養家と…という不遇に育って高校も中退、第二次世界大戦下16歳のときに最初の結婚。その夫も海軍に徴兵されて自活の途が、終戦の年(45年)19歳ではじめたモデル稼業。
 彼女にとっては、ほかに行く道がなかった気さえするのです。

 ちなみに、マリリンのトレードマークのようになったゴールデン・ブロンドの髪も、あれはじつは染めたので地毛ではありませんでした。
(つくられた部分の多い人は、べつに彼女にかぎったことではありません、けれども)

  ……………

 それからの、マリリンの全盛期の作品群のほとんどを、ぼくは中学時代に観ています。

 西部劇『帰らざる河』(54年、オットー・プレミンジャー監督、ロバート・ミッチャム共演)では、ハスキーな歌声を披露。
 ミュージカル『ショーほど素敵な商売はない』(54年、ウォルター・ラング監督)では、当時ハリウッドの女王と呼ばれたエセル・マーマンと共演。
 この年、メジャーリーグ野球、ニューヨーク・ヤンキースのスター選手ジョー・ディマジオと結婚(55年に離婚)。

 『七年目の浮気』(55年、 ビリー・ワイルダー監督)では、相手役のトム・イーウェルがゴールデングローブ賞 主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞しています、が。
 地下鉄の通気口上に立ったマリリンの白いスカートが、風でフワリと舞い上がる、映画史上あまりにも有名なあのシーンで記憶している映画ファンの方が、じつは圧倒的に多いはずです。
 56年には、劇作家アーサー・ミラーと結婚。

 映画版ブロードウェイ・ヒット・ミュージカルのバス停留所(56年、 ジョシュア・ローガン監督)では酒場の人気歌手役を演じ。
 コメディーお熱いのがお好き(59年、ビリー・ワイルダー監督)では、トニー・カーティスジャック・レモンという芸達者な共演陣にも恵まれて、ゴールデングローブ主演女優賞(ミュージカル・コメディー部門)を獲得。

 この頃が、彼女の絶頂期…と同時に、混乱期。
 睡眠薬の飲みすぎや精神病院への入・退院、61年アメリカ大統領になったジョン・F・ケネディーとの肉体関係(アーサー・ミラーとは61年に離婚)など。
 ほとんど破滅的な生き方に、ぼくのマリリン熱も急速に冷めました。
 (同性である男優への共感にくらべて、異性の女優に対する極端なまでの愛憎感情には、ぼく自身が呆れかえるほどでした)

 結局、『荒馬と女』(61年、ジョン・ヒューストン監督)がマリリンの遺作。
 この作品自体、監督や配役の顔ぶれにしてはデキがよくなったのだけれども(…というか、よく考えてみればボクは、彼女の出演映画のどれも筋書きなど、いまはもう覚えていません)。

 不運なことに、撮影終了後に相手役のクラーク・ゲーブルが急死。
 ゲーブル・ファンからは責められ、またファーザー・コンプレックスの彼女自身にとっても、頼れる男性の死はことさらにショックだったことでしょう。
 また、共演のモンゴメリー・クリフトも数年後に若くして不幸な死を遂げており、この作品はさまざまに、悲劇的な人生模様を描き出すものになってしまいました。

  ……………

 前回の主人公ジェームズ・ディーンと、今回のマリリン・モンローと。
 どちらも、ぼくの中学時代に深い影響を与えて去って行った映画スターでしたが、通りすぎた轍〔わだち〕の痕は深くて。

 後年、ぼくが書いた大学の卒論(新聞学科)テーマは『ジェームズ・ディーンマリリン・モンローにおける映画青春論』。
 だれになんと言われようと、「コレがボクの青春」だったことに、ちがいはありません。  

 想えば、ジェームズ・ディーン主演のエデンの東(55年)のスニーク・プレビュー(覆面試写会)のとき、看板娘として華やかに登場したのがマリリン・モンローでした。
 しかし、こういう場面が性にあわないジミーは出席しなかったために、伝説の〈青春の二人〉のツー・ショットは実現しなかったわけですが。
 もし実現していても、きっと気まずい雰囲気になっていたろう…と思われます。
 (この2人をご存知の方にはワカリマスよね)

 55年秋に、ジェームズ・ディーンが事故死(24歳)してから。
 7年後の62年。マリリン・モンローは、ロサンゼルスの自宅で睡眠薬の大量服用による中毒で死亡、36歳。
 マリリンの愛人だったケネディー大統領も、それから1年3月後の63年に、暗殺者の凶弾に倒れています。

 マリリン・モンローがスクリーンに活躍した時期もわずか15年。
 ジミー(4年)ほどではないけれども、やっぱり短かい輝きでした!
 (この時代そのものにも、そんな刹那的な匂いがありました……)