-No.2415-
★2020年05月02日(土曜日)
★11.3.11フクシマから → 3341日
★延期…オリンピック東京まで → 448日
★旧暦4月10日
(月齢9.0、月出12:23、月没01:37)
なにしろ〝圧観”…アゼン…
ボム・ボム、ユサ・ユサ、ズン・ズンと、大きく腰を振って歩く後ろ姿を追うムービー・カメラ。
(この頃はカメラも、ドデカくてバカ重かった…)
のちに「もっとも長いウォーキング・シーン」と呼ばれた場面は、マリリンをスターダムに伸〔の〕し上げることにもなりました、が。
その映画『ナイアガラ』(アメリカ、ヘンリー・ハサウェイ監督、共演ジョゼフ・コットン)が公開されたのは1953年。26年生まれのマリリンは27歳。
前回、ジェームズ・ディーンのところでも触れましたが、その頃のボクは、まだ8歳のガキんちょ。
マリリンにもまた、東京の私学中学校に通い始めてから、リバイバルのスクリーンで衝撃の出逢い…でした。
ただ、同性のジミー(J・ディーン)との場合は肩を組みあう輩〔ともがら〕だったのにくらべて、異性のマリリンは乗り越えなければならないボリューム膨大な砂丘のようで…そこが根底的に違っていました。
……………
占領軍アメリカの兵隊や軍属の数多くが、仮に移り住んだ首都圏。
横浜に近いボクたちの町川崎にもカーキ色の軍服は珍しくなくて、なかでも想い出につよく焼き付いているのが、彼ら大柄で脚の長い男たちの歩く姿。
後ろに立つと目の前に、蹴り飛ばし甲斐のありそうな尻がある…黒人兵のリズミカルな歩きっぷりに憧れ惚れて、ガキどもは皆、操りみたいに妙ちくりんな格好つけてマネたもんでした。
近所のガキんちょどもは、兵隊の姿を見れば「ギブ・ミィー・チョコレート」と集〔たか〕った…けれど。
「それだけはするな」と禁じられていたボクは、かわりに闇市で駐留軍放出品のチョコを買ってもらい。
1個1個銀紙に包〔くる〕まれたそれは、いざ口にしてみればヤケにバター臭い味がしましたっけね。
……………
マリリンのモンロー・ウォークを見た途端に、ぼくの連想はその「アメリカ臭いチョコ」に飛びました。
「惑わされるなよ、若ぇの」ってわけです。
それ以降、ミュージカル・コメディー『紳士は金髪がお好き』(53年ハワード・ホークス監督)、ロマティック・コメディー『百万長者と結婚する方法』(53年ジーン・ネグレスコ監督、ローレン・バコール共演)とたてつづけに、マリリンの主演作に、どっぷり。
想えばその頃の…
第二次世界大戦後の飢えた世相に、性的魅力を前面におしだしながら、「ちょっとお頭〔つむ〕のたりない金髪美人」が猛アピール、マリリンを当時のセックスシンボル最高峰に君臨せしめました。
(〝人気〟とか〝流行り〟なんてのも、ホント奇妙な、オカシナ心理ではあります…ねぇ!)
映画雑誌や、映画館で買う作品紹介パンフで知れた彼女の来歴。
ピンナップモデル・デビューにナットクしない人はなかろう…と思われます、けれども。
ぼくは始めから、あのマリリンの豊満な姿態と、紳士(…というより野郎ども)相手に媚を売る表情の裏に、いつも同居している心寂〔うらさび〕しさが痛々しかったのを、いまも忘れません。
孤児院と養家と…という不遇に育って高校も中退、第二次世界大戦下16歳のときに最初の結婚。その夫も海軍に徴兵されて自活の途が、終戦の年(45年)19歳ではじめたモデル稼業。
彼女にとっては、ほかに行く道がなかった気さえするのです。
ちなみに、マリリンのトレードマークのようになったゴールデン・ブロンドの髪も、あれはじつは染めたので地毛ではありませんでした。
(つくられた部分の多い人は、べつに彼女にかぎったことではありません、けれども)
……………
それからの、マリリンの全盛期の作品群のほとんどを、ぼくは中学時代に観ています。
西部劇『帰らざる河』(54年、オットー・プレミンジャー監督、ロバート・ミッチャム共演)では、ハスキーな歌声を披露。
ミュージカル『ショーほど素敵な商売はない』(54年、ウォルター・ラング監督)では、当時ハリウッドの女王と呼ばれたエセル・マーマンと共演。
この年、メジャーリーグ野球、ニューヨーク・ヤンキースのスター選手ジョー・ディマジオと結婚(55年に離婚)。
『七年目の浮気』(55年、 ビリー・ワイルダー監督)では、相手役のトム・イーウェルがゴールデングローブ賞 主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞しています、が。
地下鉄の通気口上に立ったマリリンの白いスカートが、風でフワリと舞い上がる、映画史上あまりにも有名なあのシーンで記憶している映画ファンの方が、じつは圧倒的に多いはずです。
56年には、劇作家アーサー・ミラーと結婚。
映画版ブロードウェイ・ヒット・ミュージカルの『バス停留所』(56年、 ジョシュア・ローガン監督)では酒場の人気歌手役を演じ。
コメディー『お熱いのがお好き』(59年、ビリー・ワイルダー監督)では、トニー・カーティスとジャック・レモンという芸達者な共演陣にも恵まれて、ゴールデングローブ主演女優賞(ミュージカル・コメディー部門)を獲得。
この頃が、彼女の絶頂期…と同時に、混乱期。
睡眠薬の飲みすぎや精神病院への入・退院、61年アメリカ大統領になったジョン・F・ケネディーとの肉体関係(アーサー・ミラーとは61年に離婚)など。
ほとんど破滅的な生き方に、ぼくのマリリン熱も急速に冷めました。
(同性である男優への共感にくらべて、異性の女優に対する極端なまでの愛憎感情には、ぼく自身が呆れかえるほどでした)
結局、『荒馬と女』(61年、ジョン・ヒューストン監督)がマリリンの遺作。
この作品自体、監督や配役の顔ぶれにしてはデキがよくなったのだけれども(…というか、よく考えてみればボクは、彼女の出演映画のどれも筋書きなど、いまはもう覚えていません)。
不運なことに、撮影終了後に相手役のクラーク・ゲーブルが急死。
ゲーブル・ファンからは責められ、またファーザー・コンプレックスの彼女自身にとっても、頼れる男性の死はことさらにショックだったことでしょう。
また、共演のモンゴメリー・クリフトも数年後に若くして不幸な死を遂げており、この作品はさまざまに、悲劇的な人生模様を描き出すものになってしまいました。
……………
前回の主人公ジェームズ・ディーンと、今回のマリリン・モンローと。
どちらも、ぼくの中学時代に深い影響を与えて去って行った映画スターでしたが、通りすぎた轍〔わだち〕の痕は深くて。
後年、ぼくが書いた大学の卒論(新聞学科)テーマは『ジェームズ・ディーンとマリリン・モンローにおける映画青春論』。
だれになんと言われようと、「コレがボクの青春」だったことに、ちがいはありません。
想えば、ジェームズ・ディーン主演の『エデンの東』(55年)のスニーク・プレビュー(覆面試写会)のとき、看板娘として華やかに登場したのがマリリン・モンローでした。
しかし、こういう場面が性にあわないジミーは出席しなかったために、伝説の〈青春の二人〉のツー・ショットは実現しなかったわけですが。
もし実現していても、きっと気まずい雰囲気になっていたろう…と思われます。
(この2人をご存知の方にはワカリマスよね)
55年秋に、ジェームズ・ディーンが事故死(24歳)してから。
7年後の62年。マリリン・モンローは、ロサンゼルスの自宅で睡眠薬の大量服用による中毒で死亡、36歳。
マリリンの愛人だったケネディー大統領も、それから1年3月後の63年に、暗殺者の凶弾に倒れています。
マリリン・モンローがスクリーンに活躍した時期もわずか15年。
ジミー(4年)ほどではないけれども、やっぱり短かい輝きでした!
(この時代そのものにも、そんな刹那的な匂いがありました……)