どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

戦前、昭和天皇・東宮(皇太子)御所のなごり  / 迎賓館赤坂離宮を訪ねて…想う

-No.2406-
★2020年04月23日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 3332日
★ オリンピックTOKYOまで →  延期開会まで457日
★旧暦4月1日、新月
(月齢0.0、月出05:15、月没18:25)









◆イグナチオ協会を横目に歩く

 四ツ谷駅(JR中央・総武線,地下鉄丸ノ内線)の赤坂口を出て南へ、線路越しにイグナチオ協会と上智大学キャンパスを見て歩く。

 上智大学は、4年間新聞学科に在籍したボクにとっては(懐かしい)はずの風景だったが。
 なんのことはない、呆れるくらい(ふぅん)と新鮮だったのは、この道が慣れ親しんだものではなかったからだ。

 学生の多くが、いまも利用するのは、新宿通(国道20号)四ツ谷駅前交差点のある麹町口であり。
 コンパ街といっていい四谷1丁目の「しんみち通」も、やはり同じ道すじにあった。
 全共闘世代の学生生活は、上智でも左翼の砦とされた「新聞科」の学生にとっては、講義ときどきデモ(しばしば逆ケースもあり)の毎日。

 新宿駅付近での集会とデモで、機動隊との衝突などあって追われれば、この新宿通すじを四谷方面へと逃げたものだし。なかには、そのまま都内の下宿まで走る者も、さらには余勢を駆って皇居を一周してくる猛者まであったりもした。

 入学まもないフレッシュマンの頃は、赤坂見附の弁慶橋がデートコースに利用された、けれども、とくに赤坂離宮を意識することもなかった。
 文化的な環境にも、いやおうなしに時代と年代の影響はあるものだと、しみじみ想う。

 かつて20代(1960年代後半)の頃には、まるで〈浮世を離れた島〉のようでしかなかった〝離宮〟へと、いまは別な興趣に誘われて歩く。

 道が紀尾井坂と駿河橋坂とに岐れるところから、喧噪を離れた園地に入り。
 正面の門構えは、映画『ローマの休日』を彷彿とさせる…が。この門までは確かに、学生の頃にも歩いた記憶はよみがえっても、当時の感懐までには至れなかった。

 見学者は、駿河橋坂方面にまわりこんだ西門から入る。
 迎賓館赤坂離宮の内部は撮影できないから、その豪華絢爛の〈しつらい〉お伝えはできない。
 本館内の間取りや装飾などは、ホームページでご覧いただくしかない…が。そうはいっても、皆無ではものたりなすぎるので、1点だけ、2階「彩鸞の間」(来客が最初に招じ入れられる控室、記者会見場にもなる)の写真を拝借した(上掲写真2段目)。

 「彩鸞の間」の名の由来、「鸞〔らん〕」という瑞鳥(中国古来の想像上の鳥で国が平和で栄えているときに現れるといわれる…「即位礼正殿の儀」で皇后が入られた御帳台・露盤上を飾っているのもこの鳥)の姿は、部屋左右の大理石暖炉、マントルピースの大鏡上に見られる。ナポレオン1世当時の様式、きらびやか。
 (ちなみに、本館・正門・噴水などは明治期以降の建物としては初の国宝)

 館内要所には、案内係の職員が立って、質問に応じている。
 ボクは、ふと(それにしても)と怪訝に想う。
 その学生時代(1965~69)は学園紛争に明け暮れた…とはいえ、根っから好奇心いっぱいの青春が、キャンパスからも間近いこの離宮内を、訪れ見学した覚えがない。

 正直にその事情を話したら、(あぁ…)と合点の笑みで教えられた。
 「その頃ですと、ちょうど〝昭和の大改修〟の時期にあたりますから…」と。

 明治の世になって間もなく、紀州徳川家が江戸中屋敷の一部を皇室に献上。
 1909年(明治42)に東宮御所の完成をみたのが始まりで、「赤坂離宮」になったのが14年(大正3)。
 昭和天皇が摂政宮であった頃にはここに住まわれ、関東大震災(23年=大正12秋)を経験。

 戦後。48年(昭和23)に国に移管。国立国会図書館時代を経て、裁判官弾劾裁判所であった当時の61年(昭和36)から65年(昭和40)まで東京オリンピック組織委員会(事務局)がここに置かれていた。

 先のオリンピック東京大会は64年(昭和39)10月。
 このオリンピック開催が〝復興日本〟の象徴と位置づけられ、〝国家の威信〟を懸けたプロジェクトでもあったことを、ぼくに、まのあたりに思い知らせたのが、「東京オリンピック組織委員会」事務局を赤坂離宮に置かれたことであり。

 記録映画『東京オリンピック』の制作部も、その後の時代をリードすることになるピクトグラムほか、さまざまなデザインを手がけたデザイン室も、ここに置かれたことが、如実にそれを物語る。

 そして、オリンピック後の68年(昭和43)から昭和の大改修に入った赤坂離宮は、完成後の74年(昭和49)に「迎賓館」として歩みをはじめる。
 一般公開は、その後のことになるわけだから、学生時代のぼくが内部を拝見できていないのは、とうぜんなのであった。

 だが…それにしても…
 なぜ、迎賓館赤坂離宮に来て、そんな昔日に想いがとんだかといえば。

 あの頃のボクたちには、これからのニッポンという国が、ますます息ぐるしくなっていくばかりだろうと思え(それはまちがってはいなかった…)、この状況を乗り越えるためには、もっと幅広い「市民運動」にまで高める必要があることも、また、わかってもいたからだ。

 しかし、現実には〝学生運動〟と呼ばれるかぎられた枠内からついに抜け出せないまま、やがて終息してしまったのだ…けれども。

 まさに、あの頃の視点に(〝デモる〟日々の合間に)、この建物ほか、「象徴天皇制」もふくむ日本人の精神文化に、深く根をおろしているものに対する洞察が、もう少しでもあったら、ずいぶん違っていたろうと思われるからだった……

 本館内を巡って主庭の噴水へと歩き、振り返ると本館の東側には、64年オリンピック東京大会にあわせて竣工なったホテル・ニューオータニの、大きな話題になった〝回転フロア式〟展望レストランが望まれた…けれど。
 この回転フロアでの展望ダイニングも、ついに経験がないまま(いまは回転休止中とか…)に、時はすぎゆく。








※なお、この記事、取材は1月4日(土)のこと。迎賓館赤坂離宮の一般公開は現在、臨時休止中です。