どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

全線開通した「常磐線」沿線を訪ねて③ /    帰還して…どうなるの「夜ノ森」(富岡町)

-No.2385-
★2020年04月02日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 3311日
★延期…オリンピック東京まで → 478日
★旧暦3月10日
(月齢8.7、月出11:19、月没01:18)

















◆アレから9年…やっと辿り着いた「夜ノ森」駅

 「双葉」駅を出た常磐線下り(南行)電車は、「大野」駅(大熊町)の次が「夜ノ森」駅。ここからは富岡町になる。

 丘陵地を開削して線路を通したからだろう、ホームは一段下にあって、駅舎へは階段を上がる。
 ホームに降り立ったボクたちは、谷戸のようになった斜面を見上げた。そこには点々と植栽の切り株がのこされている。

 植栽はツツジであった。
 ホーム両側の斜面に咲くツツジは、この駅を有名な「花の駅」にしていた…が、そのことを旅人のくせにボクは、こんどの東日本大震災があるまで、知らなかた。
 列車で何度も通っていながら、下車したことがなかったからだった、けれども。
 ただ、その駅名にはつよく興味を惹かれていた。まるでそこは、〈黒々とした森の中〉にある、ようではないか……

 こんど、気にかけて訪れて見た「夜ノ森」の実際は、イメージとは異なっていたのだ、けれども。
 別の理由で、ぼくたちを引きつけつづけることになり、定点スポットのひとつになった。
 それは、そこが福島第一原発爆発事故による放射能汚染のホットスポットになり、ずっと「立入禁止」がつづいていたからである。

 常磐道常磐富岡」ICから〝浜通り〟の国道6号に出るにしても、また逆に、国道6号から川内村方面を目指すにしても、道はわずかに県道1筋が、この「夜ノ森」駅の脇を通るだけであり。
 その道筋から居住地への境は、まるで罪科〔つみとが〕咎めるかのごとくに、固く、不粋きわまりないジュラルミンの矢来〔やらい〕で囲われていた。

 常磐線は通じても、この駅もまた「無人」。
 階段を上がってすぐの壁に、放射線量の電光表示板が0.219μ㏜(マイクロシーベルト)/hを示していたのが、まるで「帰還困難区域」からの赦免状かなにかのようだった。
 (斜面のツツジも、懸命の除染作業で切り払われたのだが、再生を願う地元の人たちの要望で株だけはのこされた)

  ……………

 谷戸を挟んで東側と西側の地区を結ぶ、新たな跨線橋駅舎ができている。この跨線橋もかつては西側まで延びていなかった。
 ぼくたちは、まず、その西側の通りに出てみる。ぼくたちは、この西側の通りから、立ち入ることの許されない東側地区(駅正面側)を眺めて、幾度ため息をもらしたことだろう。

 この夜ノ森地区における東側と西側の区別は、線路を挟んで東側が「帰還困難区域」(この3月10日に一部で避難指示解除)、西側は「居住制限区域」だったが17年4月に解除と、これも放射線汚染濃度の差と言えばそれまでだ、けれども、深刻な〝地域の分断〟を招いた。

 いま、西側の通りには美容院が1軒開業しているほか、数世帯が帰還あるいは帰還準備している様子だったが。
「この駅に降りて、どうするの? 人の住めるところじゃないでしょ」
 と憤る元住民の方が圧倒的に多いし。損害賠償の話しもまるで進展していない。
 だからいまも、避難先から放射線量を測定しに通う人さえいるのが現実。

 常磐線開通後、西側の通りを歩く人の姿を見かけるようにはなった、けれども。それは、ほとんどが他所からの来訪者だった……






















◆東側の桜並木も開花は〈未だ〉だった

 駅正面にあたる東側地区に行って見る…と。
 駐車広場の隅に大きな桜の樹が1株、「サービスね!」とでも言うように、薄いピンクの花を盛んに開いてくれていた。
 
 ぼくらと同じ電車でやってきた旅人たちが、歩み寄ってはスマホ・カメラを構える。
 ぼくにとっても、初めての「夜ノ森の桜」だった。
 被災地東北巡訪の旅、9年のあいだ、ついに福島で桜の季節に出逢うことはなく、17年から季節限定で通行がゆるされるようになった、〈桜花の並木〉にも縁がなかった。

 しかし……
 その桜樹があるのは「立入禁止」の看板の前、枝を垂れた花群のスグ目と鼻の先には、ジュラルミンの矢来が行く手を塞ぎ、向こうに広がるのは無人の住宅街。
 ここで桜を「愛でよ」というのが、どだい無理な話しであった。

 …と、そこへ地元の住民も車でやってきて、「おぉ咲いとるぅ」と顔ほころばせる。
 ぼくが声をかけたら、「桜並木の方はまだ早かったナ」と、〈待ちわびた春〉を迎える表情に屈託はなくて。余所者は、ひたすら、その落差に戸惑うばかり。

 「夜ノ森」という地名の由来は、戦国時代、岩城氏と相馬氏とがこの地の領有権を争って「余(=我)の森」と主張しあったことに由来する、という。
 それ以来の風がのこって、いまでも夜ノ森以南は水戸と、夜ノ森以北は仙台との関係が深い、ともいわれるくらいだ、と。

 そこで、さて。
 いかにして「余の森」が「夜の森」になったかは知らない、が。
 「夜ノ森」が暗くてはいけないと言う住民の願いから、桜並木が誕生し、ツツジの駅ができた、というのはわるくない。

 そのせいか、どうか。
 ぼくの印象には、富岡という町における夜ノ森地区は、なにか別趣の〈離れ〉といった位置づけにも思われるのだった。

 それにしても……
 前にも「双葉」駅で感じたこと、「とりあえず電車を通しました」…(あとのことは、まぁ、これからボチボチってところでしょうか)みたいな…9年も経ってダ…深い喪失の傷痕、ここ夜ノ森ではましてや、あまりにも痛々しく重い。

 常磐線全通にあわせて「帰宅困難区域」一部解除といっても、それは駅前のほんの小さな一画と、そこからつづく駅前通り、および、名物「桜並木」を通って町の中心部へと向かう1筋の道だけ。
 ほかは、道のすぐ両脇から奥のすべてが「立入禁止」なのである。
 つまり、ここはまだ、9年前の原発爆発事故のすぐ後、住民が避難して〝空〟になった放射能汚染地域の情景、そのままだった。

 駅前の商店脇にのこる郵便ポスト(かみさんは中身の郵便は届けられたのかしら…とシンパイする)、駅前通りの家にとりのこされた外車「ポルシェ」のスポーツカー「カレラ」、なぜか配達に来たままに乗り捨てられたらしい宅配スクーター、などなど。
 いずれも、塗料の色褪せだけが、過ぎた歳月の長さを物語っているのだった。

 「桜並木」にも出て見たけれど、閑散、ただ寒々として、寄る辺もなく。
 そこに訪問者たち、他所者の姿がちらほらするばかり…では、気もちの落ち着くところもない。

 しかも、意地悪なダイヤでは、次の電車が来るまで2時間も待たねばならない。
 店ひとつなく、駅員もいない、電話ボックスひとつ、緊急連絡先の貼り紙一枚なく、「立入禁止」監視の警備員のほかは誰もいない、ここでなにか緊急事態が生じたって、助けもないだろう。

 やむをえず、ぼくたちは、隣駅の「富岡」までタクシーで行くことを考え、スマホで地元近辺のタクシー会社探しをはじめた。と
 そのとき、「どうされました…?」と声をかけてくださる方があり、事情を話すと「送ってさしあげましょう」と言ってくださる。
 ありがたすぎる話しにキョウシュクのかぎり、だったけれども、ぼくたちには好意にスガルほか手だてもなく、便乗させていただくことにした。

 この方は、地元も地元、夜ノ森に住む人。
 やっと開いた夜ノ森駅の様子を観に来た、とのこと。いま現在は避難先に居られて、ときどきに古里を訪れている、と言う。しかし……
「ここには戻りません、戻れませんもの」
 桜並木にあるわが家のところで、ため息まじりに、いちど車のスピードをゆるめた。

 この夜ノ森。いうまでもなく
 聖火リレーのコースからは除外されている……