-No.2141-
★2018年08月02日(金曜日)
★11.3.11フクシマから → 3067日
★ オリンピックTOKYOまで → 357日
★旧暦7月2日、繊月
(月齢1.4、月出05:42、月没19:48)
※きょうは、七十二候の「大雨時行(時として大雨が降る)」頃。ことしの雲行きはホント…ザッとひと雨ほしいところだ!
◆1964…パラ大会は…人知れず
――前回[前半]8月1日記事のつづきです――
1964年10月10日(のち〝体育の日〟)から24日まで、熱気にあふれた前回、東京オリンピックがすむと。
各国選手団の帰国を追って、はっきり、東京の街は一気に〈気抜け〉した。
そう…すっかり虚脱感に酔っていた、といってよかった。
その後、月がかわって11月8日から12日まで、5日間にわたる「東京パラリンピック」のことは、まず…ほとんどの日本人の記憶にはのこっていない…と思う。
〝浪人〟受験生の、ふだんの生活に戻った、ぼく、だったけれど。いつも社会の匂いを嗅いでいたいヤツには、そんな空気が沁みるようによくわかった。
ちなみに、ぼくは当時の、そこそこ〈中流家庭〉の子弟。
しかし、弱者の立場にいつも思いを寄せていた両親のもとに育ったおかげで、そのへんの事情には身をもって通じてもいた、わけだが。
そのころの日本社会には、まだ〈共生〉とか〈ボランティア〉とかいった観念はほとんどなく、〈福祉〉的なことは〈できる人がしてくれれば〉いい、その程度にすぎなかった。
富裕層による貧困層むけ〈社会奉仕〉の色、濃かったわけで。ゲンジツ
障害者は明け透けな差別用語で呼ばれ、障害者をもつ家庭はいつも意識して他人の目から逃れることを考えさせられて、隠すことが常態化。養護学校にも通わせてもらえない子があるほどだった。
つまり、「パラリンピック」という知名度さえ、てんでお話しにならないほど低いもので。
大会5日間中、全国紙スポーツ面の扱いも、紙面半分あればいい方…だったのではないか。
テレビ放映にしたって(もちろん中継などいっさいなし)、通常ニュースの域をでることはなかった。
そもそも、その頃は、「パラリンピック」そのものが(実質的には)誕生したばかりで、まだ未熟というか、ほんの黎明期。
前回の60年ローマで創始され、64年東京が第2回の大会であった。
ちなみに、参加22ヶ国(地域)375人、9競技144種目、選手村はオリンピックと同じ(ここで開・閉会式)だったが、主競技場は国立競技場ではなく代々木公園陸上競技場。
オリンピックと違って予算にかぎりのあったパラ大会は、大学生のボランティア通訳、陸上自衛官たちによる介助・補助をうけ、会場の段差解消などには、これもマンパワーの突貫工事で対処する…といった、まさに実情は押っ取り刀状態であったらしい。
『上を向いて歩こう』の坂本九チャリティーコンサートなどで、計5000万円ほどの寄付金が集まったそうだが、内実は知名度が上がったというより、関係者の努力の成果だったに相違なく。
そんな台所事情だから、オリンピックの場合のような大会組織委員会による「公式記録映画」(市川崑総監督による『東京オリンピック』)を制作できるわけもなく。
したがって、映画愛のぼくですら、ニュース映画の断片にしか観た記憶のないパラリンピック競技の、実況映像は貴重このうえもないものであった。
◆記録映像が伝えた3つのポイント
上映は、いずれもスタンダード・サイズで。
13日(土)が、記録映画『東京パラリンピック 愛と栄光の祭典』(白黒63分、監督・脚本・撮影/渡辺公夫、KADOKAWA配給)。
19日(金)は、記録映画『1964年東京パラリンピック大会記録映画』(白黒45分、NHK厚生文化事業団・NHK制作)。
なお、この2作品のほかにも、記録映像がのこされたのだが、ざんねんながらその多くがいまは行方不明になっている、という。そこにこそまず、日本社会のこれまでが物語られている。
2作品を観て、さまざまな感慨はつきない…わけだ、けれど。
ここでは、以下の3つのポイントに絞って、お話し、しておきたい。
①は、障害者たちが置かれていた立場の違い。
ある日本人選手がインタビューにこたえて、「ほかの国の選手たちは、自立して仕事もして、税金を納めている障害者がたくさんいた。それにくらべて自分たちは、まだ自立さえもできていない。そこに大きなチガイを感じました」と。
この言葉こそが、64年東京パラ当時の日本社会、その正鵠を射抜いている。
なぜなら、そのころ実際には、物心両面のサポートが可能な「療養所」に居て、素質を見出された者だけに、大会出場のチャンスが与えられたからである(それからいままでに、はたしてどれほどの進展があったのだろう…)。
②は、下駄ばき着物に割烹着姿のお母さんたち。
主に会場周辺などの清掃や、さまざまな「おもてなし」に参加奉仕する、これが、あのころのお母さんたちのいわばユニフォーム。ぼくたちも、ずいぶん、このお母さんパワーに支えられ覚えがある。
ルーツは昭和20年の終戦後、空襲などで荒れた皇居の清掃・雑草とりなどに、各地から上京した勤労奉仕団かと思われ、その後には赤十字の奉仕団なども誕生。その活動の中心にあったのも、やはり着物に割烹着姿の日本のお母さんたち、だった。
このことも、その姿勢について、〈共生〉の一翼に銘記されなければならない。
③は、「さあ、これからだ」。
東京パラ大会の記録2作品にこめられた、究極のメッセージはこれにつきた。けれども
……………
記録映像2本を観おえて、「ほぅ」と、ため息だった。
ため息は
前回64年大会から半世紀(55年)、あまりに変わり映えのしない現状に、であった。
たしかに
こんどの大会に向けては、意識的な底上げが急ではある。
けれども、それは、従来の〈かぎられた物心〉から鳴りもの入りの〈システマティック〉な制度への転換がはかられた程度…の域を出ない。
ぼくも、折をみては、世のうごきに見聞のアンテナを巡らせているのだけれど。
パラ大会参加レベルの、選手発掘や指導の手厚さには、たしかに進歩が見られるものの、もっとも将来への希望にかかせない、庶民・大衆レベルでの底上げ〈裾野の広がり〉については、期待薄。
はっきりいえば、大会後の〈共生〉ムードの冷え込み、支援体制の〈尻すぼみ〉が懸念される。
そこで……
◆ソフィア「オリ・パラプロジェクト」、「Go Beyond」の若者たちへ
きみたちのピュアな熱意にこそふさわしい、さらなる行動に期待したいことがある。
それは、来夏パラリンピックまでのチャンスを活かして、〈ベストの共生〉へのステップ、さらにはジャンプへの助走に弾みをつけてもらいたい。
それは
「パラもひとつに、同時開催のオリンピックへ」
ぼくは、ほんとうに差別のない〈共生社会〉を目指そうとするなら、オリンピックの後にパラリンピックという、これまでの抱き合わせ開催ではない、〈対等・平等〉の大会運営に切り替えるしかない、と思う者だ。
きみたちの、ほんとうの思いも、じつはそこにある(…と思う)のなら、声を上げるときはいまを措いてほかにない。
そう考えるにいたった条件を、いくつか挙げてみよう。
〇スポーツ(アスリート)・マインドに別はない、なら、垣根をとりはらえばいい。
〇パラの試合は、はじめは別枠であってもいい。しかし種目によっては、すでにオリ
ンピアンに迫るか、超えるレベルのものがあり。
〇また、車いすラグビーや車いすバスケなど、健常とされるアスリートも参戦を望む
ほどの競技も存在する事実。
〇たいせつなのは、同じ場に・同じ時に・共に在る、こと。可能なところから、共生
の模索を進めていけばいい。
〇少なくともいま現在、パラ・アスリートの高度なパフォーマンスへの理解はある。
〇オリ・パラ大会の開催に、かかる莫大な費用が重荷になって、すでに久しい。運営
のスリム化にあたっても同時開催のメリットは大きい。
〇課題は、競技種類・種目の数を絞ってえいくための方策だ。増加していくのが自
然であるなら、こちらもひとしく痛みをわかちあえばいい。
以上のためにも、きみたちに、もうひと踏ん張りしてもらいたい、ことがある。
それは、来年8月の大会開催までには、もう1度や2度は、64年大会記録映画の上映・放映があるにちがいない。そのとき
オリンピック公式記録映画『東京オリンピック』に併せて、「パラリンピック」記録映画の上映・放映をしてもらう。それが、パラ大会への理解と支援を高める、なによりのチャンスであるからだ。
このたび、上映後のトークショーで、64大会出場者の竹内昌彦氏が、聖火最終ランナー〝原爆っ子〟坂井義則さんが聖火台に点火するまでの実況放送を再現して、会場に感動の波を広げた。
そんな効果も期待できるし……
来る、次の東京大会でも公式記録映画製作の目途はたたないらしい、パラ大会記録のチャンスが訪れないともかぎらない。
最後に
かつて、映画製作の現場にいた経験もあるボクは、きみたちに薦めておきたい。
記録映画は、なにしろ、そのときの実況を現場に出向いて、克明に記録しておかなければ、はじまらない。
逆に言えば、記録さえのこしておけば、構成・編集は後でもできる。
クラウド・ファウンディングなど、費用調達の道もいまは、少なくない。
なにしろ、もう二度とはめぐり逢えない…かも知れないチャンスだ。
あきらめないで、できるかぎりのことを、してほしい。
……………
※2020東京パラリンピックへ、あと1年。
8月25日(日)には代々木公園で、パラ競技体験などで交流をふかめるカウン
トダウン・イベントが行われることになっている。