-No.2105-
★2018年06月27日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 3031日
★ オリンピックTOKYOまで → 393日
★旧暦5月25日
(月齢23.7、月出00:35、月没13:14)
※きょうは七十二候の「菖蒲華(アヤメの花が咲く頃)」。ちょうど、そんな按配…ですが、むかし旧暦では5月下旬ですか……。
◆汝の学校…東京タワーの真下!
創立は明治39年(1906)の、芝中・高等学校(東京都港区芝公園)。
浄土宗の大本山で、徳川家の菩提寺でもある増上寺によって設立された、中・高一貫教育の私学。
(前歴をいえば、13世紀頃からあった子弟教育の〈寺子屋〉に端を発するともいう…)
同窓会名簿を見ると、第21回生(昭和2年卒業)からの数多が列挙されて、分厚く、その59回(昭和39年卒業)に、ぼくらが存在して…いまは、いうまでもない100回生を超えている(2006年には創立100周年を迎えた)。
「すばらしい」ともいえるし、「げにおそろし」ともいえる、やも。
長い歴史の一端、ぼくらが中学に入学(昭和33年)した当時の世相を振り返ると……
ぼくらが生まれたのは、昭和20年(1945)という、あるイミ最悪の世代。
〈戦中最後〉と〈戦後最初〉が同居するかたちで、親たちは食糧難をのりこえて子育てをした。
ぼくらが中学に入学した1958年には、東京タワーが竣工(12月)。
完成目前の塔の脚、1本の脚元でダイナマイト心中自殺という衝撃の事件があって。ぼくら1年坊主の何人かが、事件後の現場付近を下校の途中、その凄まじい顛末の果てを目撃している(つまりボクがその一人であった…)。
「脚1本折れても塔は倒れん」という関係者の談話があり、でも2本折れたら……
「おれたち下敷きだぜ!」噂噺にもなった。
いまも芝学園の校舎・校庭は、東京タワーの展望台から、北の眼下に、それこそ「真下」といってもいいほどの位置に見ることができる(校庭なんぞ、それこそ猫の額ほどの)。
この話しと、入学式でのドナタかの挨拶にあった言葉が記憶にのこる。
「きみたちは大変な時に生まれて、栄養もよくはなかったろうから、あまり期待はできない…という者もあったが」
もちろん挨拶の言葉は、このあとに「なんの負けるかの意気込みで頑張ってもらいたい」という、激励でしめくくられたのだ…けれど、ぼくの脳裡にはなぜか、この前半部分だけが(冗談じゃねぇや!)切り抜かれてある。
……………
ともあれ、吾らは…そんななか
「汝の学校いずこにあるぞ 三縁山(増上寺の山号)内伽藍のうしろ」に、
「遵法〔じゅんぽう〕自治」の校訓(ぼくらが入学する5年ほど前に生徒会が誕生)のもと、「自由でおおらかな校風」とされるなかに学び。
プールもない(卒業翌年に完成)、校庭はアスファルト(現在は全天候型ウレタン舗装)というカコクな環境でよくスポーツにも励み。シーズンをさきがける学園祭に、青春の芽生え胸にときめかせ。
惜しむらくは「あまい(よくいえば家族主義的)」と評されながらも、私学進学校の誇りを胸に、前回東京オリンピック開催の年に巣立っていった。
……………
それから、半世紀。
芭蕉『奥の細道』に曰く、「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」。
……………
卒業生は、ひとしく同窓生。
100周年を超えた母校の同窓会にもまた、〈歴史は重石〉。
◆同窓会も卒業のとき…
ことしで52回をかぞえる、芝学園の同窓会大会。
歴代の卒業生、卒業年の末尾で揃えた「0」から「9」までの歴々が、それぞれの世代を代表して10年に1度の世話役をつとめる。
6月に入って、母校でことしの同窓会大会(ことしは9の期の担当)があり、その後、二次会というカタチで、ぼくら59期仲間だけの同期会があった。
じつは、ぼくも20年前の同窓会大会(9期の担当)では、世話役の一端を担わせてもらったのだ…けれども。このとき1回きりで、ご免被らせてもらうことにした。
〈同窓会大会〉の〈卒業〉…卒業生にもそれくらいの自由はあっていいだろう。
ナゼかは言わない。
ただ(歴史とは罪なものだな)と思った。いや、〝歴史が罪〟なんじゃない…積み重ねの〝重み〟に耐えなくなったことに愕然とした。新陳代謝というものが、なければイケナイ。
おかげさまでイイ学校に学ばせてもらったし、先生たちにも進取の気象をもつ方が多くおられた…のだが。
ざんねんながら、(同窓会大会は)萎れ、朽ちかけてきていた。
……もういい……
吾らも、卒業して半世紀を超え、すでに大学からも「卒業50年」祝いの知らせをうけた面々。
みな〈過客〉であった。
今回の世話役をつとめてくれた、O君からは「同期会だけは、きみだけ」と言われ、「すまない」と詫びた。
ところが、同窓会大会からの流れの、その同期会に、二次会にだけ参加の仁が、じつは、ほかにも何人かあった。
そりゃそうだろう…そういう仁もいる、ということで設けられることになった二次会なのであった。
本番の同窓会大会では、レコード・プロデューサーのNくんが平原綾香さんのステージ(20年前には森山良子さんだった)をもうけてくれ、Kくんの記念授業があり、また画伯のAくんからは福引の景品に日本画の寄贈、などなど…精一杯の寄与貢献があった由。
ごくろうさま、おせわさま。
このたびは、「吾ら59期の世話役も、これが実質的にはしめくくり」(次回10年後は80じゃ!)ということで。
卒業以来、半世紀ぶり、初見参の仲間たちの顔見せもあって、同期会の座は懐かしく盛り上がった。
(珍客の前には同期生たち、ひっきりなしの旧交挨拶、いうまでもない)
……………
それにしても
ぼくは、そこここでくりひろげられる歓談の、同期たちを眺めて…ふと想う。
皆、こころのうちは(いかばかりか…)と。
ふだんの同期会は、同じ同期Oくん経営の居酒屋でひらかれているが、参加の顔ぶれは、ほぼ、きまってきている。
その〈常連〉の顔ぶれにしてからが、在学中は知らぬままにすごした者もあったりで。
自己紹介も、できたり、できなかったり、他人にそっと尋ねたり、家に帰ってから卒業アルバムを検索したり…が実態なのだった。
卒業後は、それっきり、所在も知れなくなった者もいる。物故して、所在の知れた者もある。
名簿の空欄は、白々と…遠く霞む空の如…
あらためてたしかめる卒業アルバムに、面影のよみがえる者もあれば、見る者の首が傾がったままになる者もあるのだ。こればっかりはどうも、誰しもが、きっと、似たり寄ったりのことであったろう。
ちなみに
ぼくの卒業アルバムには、担任だった先生からの一言のほかに。
一筆を寄せてくれた(当時の…)友が10人。
うち2人はすでに鬼籍に入り、2人とはいま音信不通。
のこる6人にしても、うち何人までが、そのこと(一筆寄せ)を覚えていてくれるか? ナニを書いてくれたか…までは、もはや言うまでもなかろう。
それは、ぼくにしたって同じことだ……
それでも、同期会にはなるべく顔をだす…のは何故か…
ぼくの場合でいえば、金輪際、人という生きものが好きだから。
しかし、むずかしのは、そこからで。
ならば、なんでもあるがままでいいじゃないか…と、いうことには、けっしてならない。
ので……会合おひらきになって後、あれこれの想いに追われることになり。
これも、また、誰にもあることのようで。
ときおりは、宴なかばの参会者たちのなかに、ふと同じ想いにとらわれているらしい顔々を見ることも、少なくない。
だから
そんなことがあれば一度こっきりで、すっかり懲りてしまう人もある、それほどのこと。
だって、そりゃそうだ。
どうあったって、人が生きられるのは…いまを生きること、それっきゃないんだもんな。
とどのつまり
ぼくは、その辺が、しごく、あきらめわるく、できているらしくて……
〈走馬灯〉懐かしく眺めるごとく、目を凝らせば…ふと。
そこ(同期の会など)は、どうやら、その風情「沈下橋」のようなものだな…と。
あらためて、しみじみと、ボクは想うのデス。
……ところで……
その「沈下橋」って、なんのこっちゃ。
わかってもらうには、もう1話の場が要る。
ごめんなさい、稿をあらためさせてくださいな。
なんか、こう、ひどく、くたびれちゃったもんですから……