-No.2020-
★2018年04月03日(水曜日)
★11.3.11フクシマから → 2946日
★ オリンピックTOKYOまで → 478日
★旧暦2月28日、新月へ3日
(月齢27.8、月出04:36、月没16:01)
この日、テレビ局はすべて「改元」一色、新聞各紙も号外や号外扱いの特別紙面で報じた。
この日から即改元…と勘違いする人が、わずかとはいえ、いたらしいことなど相変わらずの世相ながら。
一方で、新元号が決まるとすぐに、これを記念品に仕立てて見せる商いには、いまの時代らしい<情報アレンジ>の新しさ(新しいもの好きのキホンに変わりはない…)が見てとれ。
〝平静〟を心がけていたぼくも、なんのことはない、ほぼ半日を攪乱されてすごすことになった。
◆こういうかたちの「改元」もわるくない…
最初に想ったのは、そのことだった。
(〝元号〟が必要で、これからも〝改元〟があるのなら…)
さらに想えばこれも、平成の〝象徴〟天皇の、自然に優れた「行績」ではなかったか。
昭和天皇が崩御された後の、「平成」への改元に、この明るさはなかった。
むしろ、ぼくなどには、そのときの気分にはそぐわない、軽すぎる印象さえあったものだった。
……………
だから、こんどの改元のことにも、ぼく自身は、けして流されることだけはなかった(つもりだ)。
元号予想などには、はじめから興味がなかったし、どんな元号になってもすぐには馴染まないだろう、とも想っていた。
それでも、カウントダウンの時が刻まれ
◆官房長官の発表は「令和」
額装された新元号が掲げられたとき、ぼくの目を射るようにとびこんできたのは「令」の1字であり、あとから遅ればせに「和」が駆けつけて脇に膝をついた。そんな感じ
想えば、「元号」という、そのものが、きわめて政治的に恣意的なものである。
かつて朝廷の時代も、その後、かたちは民主主義の世になってからも、ときの権力者の恣意・都合によって、決められてきたことに違いはない。
それが、また繰り返されたにすぎなかった。
事前、一部に心配されたような身勝手・専横なふるまいはなかったけれども、そのかわり、その分まで恣意は巧みにはたらいたようだ。
官房長官は、出典が「万葉集」であることを、いちばんに言いたかったらしい。
解釈は、なるほど、そのとおりであろう。
しかし……
「令」の字義は、「礼冠をつけ、跪〔ひざまず〕いて神意を聞く人のかたち」からきた<象形=ものの形からきた文字>と、白川静の『字通』にある(異論もあるようだが…)。
「令和」が新元号と知らされて、「命令」という言葉を想った人が多かったようなのは、自然だ。
古くは、「令」の字の<象形>は「命」との二義であった、ともいう。
新聞によっては、「令」の字解をしてみせたところもあるくらい、漢字にはさまざまな意味をもつものが少なくない。
「令」の字もその伝で、「おつげ」「ふれ」「いましめ」から、「よい」「ただしい」「めでたい」などなどまで、意味するところが多い。
それだけ、真意を晦〔くら〕ましやすい…とも言える。
「令」からは、ボクなんかも「巧言令色すくなし仁(口さきのうまい、いい顔をしてみせる者にひとかどの人物は少ない)」を想いだしてしまった。
「令」の字の親戚すじには「怜(かしこい、さとい)」や「玲(かがやく)」もあって、むかしは「怜子」さん「玲子」さんが少なくなかった…けれど。
「令色」と同じく、その美しさ賢さには「冷たさ」がひそむ。
……………
ぼくは、なにが言いたいのか、といえば。
「令和」の元号を決めた現権力者(首相)の意識には、あえて古めかしく表現するなら「上を敬って和に心せよ」との気分が濃かったのではないか、ということだ。
…が、ざんねんながら、そこには〝範たるべき人(模範となるヒト)〟の自覚がない。
官房長官に<元号発表>のイイ役を与えておいて、すぐ後に<ほんとの真打は、俺だ俺だ俺だぁ!>と出しゃばるところが、とてもとてものことに「仁」どころではない。
そこで、したがって大切になるのが、いうまでもない市民の気もち(意識)だ。
「令和」を上から押し付けられるのではなく、あくまでも<吾がこと>として解釈すること。
だって、きまってしまった<元号>は替えられない、のですからね。
……………
それより、この、またとないチャンスに。
あらためて考えておきたいのは、「元号ってホントに必要ですか?」ということ。
このブログでも、年月日の表記に「元号」はつかってません。
過去のことを記(して身近にするためにやむをえず)すのに、西暦と元号を併記はするけれでも、そのための対照だけでもタイヘンなんですよね、ほんとは……
歴史を蔑〔ないがし〕ろにしてはいけないけれども、いたずらに引き摺ることもない、でしょ。
慣習として「元号」をつかうことの、手間暇とかかり(費用)。
「元号」が、どうしても、もたざるをえなくなる政治的・恣意的な性格のこと。
こんどの「改元」のことにしても、つまりは、天皇に替わった権力者の思うがまま、だった(ろう)こと。
などなどを、こんどあらためて明らかになったその限界までふくめて、よくよく考えれば……
ひとつの提案として。
「元号」を、思いきって、「象徴天皇とその時代をあらわす雅号」としては、どんなもんだろう。
つまり、公用や対外用にはしない。
「日本の文化」として尊重するなら、それでいいはず。
そうして、時を経て、「元号」の存在が意味をうしなったときには、なくなってもよい。
…それが歴史というものだろうと、ボクは思いマス。