-No.1952-
★2019年01月25日(金曜日)
★11.3.11フクシマから → 2878日
★ オリンピックTOKYOまで → 546日
★旧暦12月20日、更待月
(月齢19.4、月出21:45、月没09:37)
※きょうは七十二候の「水沢腹堅(沢に氷が厚く張りつめる)」、そんなフンイキ横溢する空模様です。明日あたりから、また、寒波になるらしい。インフルエンザ猛威! 気をつけて生きましょう。
*震災前の、日本一低い「日和山」→
◆のこった! 日本一〝低い山〟
仙台市沿岸部の、東日本大震災被害。
もっとも気になっていたのが、若林区の荒浜地区と、宮城野区の蒲生〔がもう〕干潟だった。
荒浜の方は、海水浴場の浜と、その背後の住宅地と、であり。
ともあれ、津波被害の瓦礫を撤去して道路が通じれば、被災後まもなくからすぐ近くまで行き、つぶさにその状況を知ることができた。
…が、いっぽう。
仙台塩釜港(仙台港区)に近く、工業立地の奥の蒲生干潟の方は。
震災・津波被害からの復旧に手間どり「通行止」区間が多かったうえに、ふだんから通行車両繁多な道理事情も重なって、なかなか容易には近づき難かった。
視察のこころみは、昨17年になって、やっと。
けれども、見知らぬ土地ゆえの不案内は、克服しようもなく。
結局は、海浜の突端、小さな丘に辿り着くのがやっとで……
右手に、蒲生干潟と思しき低湿地だけが眺められ。
左手には、東北電力 新仙台火力発電所の排煙筒、という風景。
その駐車場にはサーファーたちの車ばかりが並び、入り口付近の交通整理をしていた警備員さんは、「干潟?」の存在することさえ知らなかった。
……………
そうして、だから(今年こそは…)であった。
あらためて、もう一度、カーナビと吾が勘を頼りにリトライしてみるも、適わず。
白旗(降参)を確認。
宮城野区役所に尋ね、紹介された「中野ふるさとYAMA学校」の佐藤正信さんに電話をかけなおす。すると
「困ったり悩んだりしたときは人に尋ねよ」これが鉄則。
現在地を確認して、すぐに道順を指示してくださり。その通りに進むと、まもなく道端の「日和山→」案内道標を発見。
ココロアテにして探さなければ見つからない類いの、ごく小さなものだった。
ともあれ、これまでの難行苦行がウソのように、間もなく仮設の駐車場に到着。
湿地帯の脇をめぐるカッコウの道を歩き出すとすぐ、前方にソレらしきモノが望まれた。
ソレらしきモノ…「日和山」の、まず概要を記しておこう。
それは、仙台市北東端の太平洋・仙台湾に面し、七北田川河口の北側、蒲生干潟の西に位置する<築山>。
かつては標高6.05m、南北約40m・東西約20mあった<山塊>で、数株の松が植えられた山上からは海の眺めがよく、初日の出の名所でもあった。
南西部の<登山道>からは14段の石段が整備され、昭和期には北麓に川口神社が遷宮された。
詳しい経過は別にして、《11.3.11》の前までは、国土地理院の地形図に載る「日本一低い山」。
震災・津波による地盤沈下と流失に見舞われ、一時は「蒲生干潟とともに消滅」と報道されたが、2014(平成26)年、国土地理院による調査で<標高3mの山>と認定され、ふたたび「日本一低い山」に返り咲いたものである。
……………
荒らされた蒲生干潟の景を左手にして進む、と。
其処に、だいだらぼっち(民間伝承の巨人)が石塊〔いしくれ〕を掴んで置いたような<塚>があった。
それこそ、ショベルカーでひと浚いしたら「ハイそれまでよ」の、これが「日本一低い山」!
状態としてはかなり苦しい…が、郷土愛の士や好事家たちによるさまざまな標識・看板などが周辺を飾っており。「コレは日和山の〝仮設〟にすぎぬ」と懸命の威を張っているようであった。
(じっさい、周辺一帯の復旧がなった後には、立派に整備されることになるのであろう)
かつて、この日和山が標高6mあった時代には、後背地は養殖池だったという。
蒲生干潟一帯の震災被害は、地盤沈下に一部は隆起部分も見られるなど、また津波直撃による大量の土砂流失と、海底からの堆積物とが混在するかたちで、おそらく、かつてあった風景は跡形もなし。
今後も、震災前の景に復することは、ありそうになく。
これからは、また、大自然が長い年月をかけて、生態系をふくむ環境を創造していくのであろう。
ぼくらにできるのは、マインドフルネスにそれを見守ること……