-No.1883-
★2018年11月17日(土曜日)
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★ オリンピックTOKYOまで → 615日
★夢を買う…~No.9~北軽井沢の旅のつづき★
「夢を…買わないか」
仕事でつきあいのあったデザイン会社の社長から声をかけられ。
「えっ!?」
ぼくは不覚にもドギマギうろたえた。
彼は、別荘地のオーナーにならないか、というのであった。
そのとき、ぼくがどう応えたか、覚えていない…が。
想いは遠くへ飛んでいた、記憶がある。
ぼくは敗戦後すぐ、まだ食糧事情のわるいさなかに生まれた。
父は、おかげさまで一流会社のサラリーマンだったけれど、寮での暮らしはラクではなく。
食卓によく登場するのは、「おじや」や「すいとん」、生きていくのにカツカツのものだった。
近所に、飢えてグズグズ泣く子を見て育ち。
うちはまだマシ…と思っていたら、ある日、どこかの小母さんがなにやら干からびたものを届けてくれ。
感謝の腰を折るようにした母が、その日の夕食に、目に鮮やかな緑色の具が入った鍋をこしらえてくれて。
これが「いもがら」だと、教えられ……
ぼくは、そのとき不意に、コレさえ口にすることができなくなったときが「飢える」ということなのだ、と悟ってしまい。
飢えるのはごめんだ、飢えたくはない、と懸命に思った。
そのせいか。
ぼくは、自分の家が持てるとは夢にも思わず、ましてや車や土地なんかが持てるようになるとは、考えもしなかった。
それが、ぼくが育ち盛りの復興期に、うちはいつのまにか〝中流家庭〟と呼ばれる存在になっており。
父母は、寮から市営住宅を経て、土地を買って家を建て、ぼくはその後を継ぐことになり。
気がつけば、結婚もし、車まで転がしていた……
そうして
冒頭の「夢を買う」話しになる。
「北軽井沢に別荘地として将来有望な土地がある」というのだった。
そのデザイン会社の社長はスポーツマンで、冬はスキー・ツアーまで企画した。
この話しは、そんな縁からヒョイと生まれてきたものらしい。
社長みずからがまず買いもとめて、ごくかぎられた範囲にもちかける気になった、という。
「どんなところか、見せてもらえばいい」
誘われるままに出かけたら、思いのほかにヨサそうなところだった。
ときは1970年代後半、ぼくたちは20代後半。
86(昭和61)年12月~91(平成3)年2月の「バブル景気」より10年ほど前のことだったけれども、経済は右肩上がりの復興後期。
「ぼくには縁のない話し」とかなんとか言いながら、ちゃっかり波に乗っていたのかも知れない。
その頃、いずれ軽井沢を追い越すかも知れないと噂された、北軽井沢。
雑木林の、右には浅間の噴煙を眺め、隣りの牧草地との間には小川が流れる、200坪。
「いずれは、ささやかな別荘か、ペンションにするなんてのもありか」
いい気な短絡思考をさせるふんいきが、「夢を買う」気にさせたし。
地目「原野」の値も安く、分割払いにしてもらえば、共働きのぼくらにも手が届いた。
……………
ともあれ
こうして手に入れた「夢の土地」は、とどのつまり「夢のままの土地」になった。
それからウン十年の歳月を経る間には、さまざまな紆余曲折があり、時の世の波も、吾らが人生の波もあって、気がつけば「片づいて生きる」歳になっていた。
夢に「ありがとう」を言って、跡継ぎのない身の〝整理旅〟に出た、という次第。
……………
北軽井沢は かわらない 浅間山麓の自然のなかだった。
かつてあった「いずれ軽井沢を追い越すかも知れない」との噂は…ついにウワサのままか。
ぼくたちの土地の周辺にも見られた別荘群の、多くがいまは、持ち主が老いたからだろう、空き家も同然になっており。
ぼくたちの土地を、どうすれば手ばなせるのか? も、わからない。
ルーレットに球を転がす心境で、電話番号簿から見つけた不動産屋さんを訪ねたら、そこにラッキーな出会いが待っていてくれた。
ぼくらにも まだ ツキがある。
いや。
実際は、こちらの事情をうちあけて、「よしなに」お願いして帰ってきただけだから、まだなんともカイケツの道すじはついていないのだけれども……
北軽井沢には「SweetGrass」という、ちょと名の知られたグリーンステージのキャンプ場がある。
ぼくらが逢ったのは、そこを事業経営の母胎にする「きたもっく」の代表、福嶋誠さん。
その肩書のひとつに、不動産取引免許が含まれているにすぎない。
有限会社きたもっく
……………
彼は、「ルオム(フィンランド語で、自然に従う生き方)」の理念をバックボーンに、浅間山麓北軽井沢高原に、次代をになう若者たちと「The future is in nature」のさまざまな活動と事業を展開。
彼の〝生き方〟というか、そのレゾンデートルは著書『未来は自然の中にある』(上毛新聞社出版部刊、1800円)に充ち溢れている。
そうしてそれは、ぼくの〝世界観〟とも親しい。
……………
ぼくらの土地が、どうなるか あるいは ならないか。
それを別にしても、また逢うことになるだろう気がしている。
したがって、このブログでもまた、お話しするチャンスが巡って来ることになるにちがいない。