-No.1857-
★2018年10月22日(月曜日)
★11.3.11フクシマから → 2783日
★ オリンピックTOKYOまで → 641日
*JR東日本の都心部、秋葉原-御徒町間の高架下に「2K540」と呼ぶ商業施設が2010年暮れにできた。この名称で〝鉄道ファン〟ならピンとくる。つまり、これは「距離表示」だな…と。そのとおり、ここは東京駅から2,540m付近。正式名称は、このあとに「AKI-OKA ARTISAN」とつづくいて、「秋葉原から御徒町の間にある、ものづくり(職人)の街」のこと。名前はヤヤコシイが、ここに集まる「アトリエ・ショップ」の数々はとても知的なシゲキに充ちてタノシイ。ぼくは、モノづくりアイディアのヒントをもとめて、ときどきこの街を覗きに行く*
◆浪江町の「思い出の品展示場」
…というのを、はじめて見かけ、訪れ尋ねたら14年8月からここにある、という。
場所は、国道6号の高瀬交差点そば。
「6号線高瀬」といえば、いわき市方面へ通れるようになるまで、「通行禁止」の検問が置かれていたところだ。
何度もUターンさせられた因縁の場所にもかかわらず、これまでまったく気づかなかった。
それは、ムリもないのだ。「双葉ギフト」の店をそのままに借りており、これといって目につくような掲示もなく、店舗は駐車スペースの奥に引っ込んで在った、からでもある。
ここには、浪江町内、津波被災地の瓦礫などのなかから、ボランティアたちの協力も得て発見、選別された「思い出の品」の数々が、災禍の痕を拭い去った状態で展示され、運転免許証など本人確認のできるモノを持参すれば、引き渡して貰える。
たいせつな「思い出の品」を見つけ出した人からは大喜びされ、深く深く感謝もされたけれど…それは哀しいことに、(亡くなった方や避難した方が多いため)数にすれば少ない…のだった。
それぞれの家族それぞれの、さまざまなカタチでのこる品々のなかに、恵比寿さんや大黒さん、布袋さんの像が目立って多いのは、大漁を願う漁師町ならではの特徴だろう。七福神も歓迎されていた…と知れる。
もうひとつ、目だって多いのが記念写真で、いまも家族の成長記録が「思い出」の柱になっていることを、
うかがわせる。
それにしても、潮水に洗われ、晒されながら、おどろくほど生気にあふれ、色褪せていない印象が鮮烈。
訊ねてみたら、「いまのプリクラなんかに使われているインクがね、昔の写真とは違ってきてるようですよ」とのことだった……
(思い出の品展示場は、日曜を除く9時~15時開設、☎0240-24-0100)
◆国道114号…いまの放射線量を感じてみる
この国道は、長らくの「通行止め」と、そして「入域許可証」と「放射線量計」を手にユウウツに減速走行した思い出のふかい道。
(けれども、ぼくはついに、自身で「線量計」を保有することはなかった)
見えない放射線を浴びることに無神経だったわけでは もちろん ない。
ただ、線量計の警告音にいちいちビクビクするより、吾が身の五感を総動員して、その場その場の<環境>と<空気>を身に染ませておけばよかった。
さいわい、東京新聞の週一記事「3.11後を生きる こちら原発取材班」の17年10月11日号に、9月20日に通行止めが解除されたばかりの国道114号を走行、調査した線量データの報告があったので、それを目安に。
国道6号から岐れる「知命寺」交差点から西へ あらためて もう一度、走って見た。
国玉神社をすぎて常磐道・浪江ICあたりまで、町場の線量は低いレベルにある。
(といっても、政府の長期的な除染目標値、毎時0.20マイクロシーベルト前後…だけれど)
加倉地区の道路脇には、犬・猫の鳴き声でにぎやかな一軒があって。
こちらのお宅には、原発事故後の全町避難で飼主とはぐれたペットたち、80匹ほどが保護されている。
世話しているのは、建設業を営むAさん。
長らく、福島第一原発の配管・溶接工事やメンテナンスの仕事をしてきた、自責の念もあってのこと。同じ自責の念から、いまも危なっかしい廃炉作業にも携わっていた……
町場から西の山側にかかって、室原・賀老と進むにつれ、このあたりから先、断続的に線量計の警告音が高くなっていったのを想い出す。
すぐ脇を流れる請戸川の水音は聞こえない。
大柿ダム湖を越え、昼曽根地区あたりから津島地区にかけて、いよいよ放射線量のホットスポット地帯に入る。
線量計の指針は5.0を超え、場所によっては10.0に迫るところもあったのを忘れない。
北隣りの山地は飯舘村長泥地区で、どちらもいまだに「帰還困難区域」。
ぼくが、この地区に入って感じたことは、放射線「ホットスポット」という存在の在りようだった。
確かに多いのは〝谷筋〟、それも〝谷と谷との合流点〟だったけれども。しかしそれは、ぼくらが山歩きをしていた頃にもっぱら意識した〝水の流れの谷〟ではなくて、どうやら〝風の流れの谷〟。
この二つは、同じようでいて、やはり微妙に異なっていた。
たとえば「ホットスポット」というのは、〝水の淀み〟より〝風の吹き溜まり〟にできるもののようだった……
国道114号の「通行止め」が解除になって、変わったのは辻々に立つ看板に表示された文言。
いまは、
「帰還困難区域につき長時間の停車はご遠慮ください」
になっている。
山の尾根に出、飯舘村への道を岐け、川俣町山木屋地区へと下りはじめると、放射線量は目に見えて減衰していく。
「除染」という言葉に無理が感じられなくなるのは、このあたりからだったのを……ふたたび想い出す。
……………
ここで、「東日本大震災」による浪江町の被害と、その後を見ておきたい。
《11.3.11》大津波と原発事故の被害
〇直接死 151人
〇関連死 423人
〇死亡届 31人(計605人)
〇住宅解体件数 195戸(16年3月末まで)
浪江町の住民動向
〇震災前人口 21,434人(7,671世帯)※11年3月11日現在
〇震災後人口 18,256人(6,950世帯)※17年5月31日現在
〇〃居住人口 234人( 165世帯) 〃
※18年6月末現在、町民の避難状況
〇県内避難 14,333人
〇県外避難 6,243人(計 20,576人)
※住民意識(16年9月調査)
対象9,087世帯 回答4,867世帯(回答率53.6%)
〇すぐ又はいずれ帰還 17.5%
〇どちらか判断つかず 28.2%
〇戻らないことにした 52.6%
〇無回答 1.7%
……………