-No.1693
★2018年05月11日(金曜日)
★11.3.11フクシマから → 2619日
★ オリンピックTOKYOまで → 805日
おはようございます、おげんきよう、<なっつまん>です。
*いまは高知在住、中学・高校時代の友が、ぼくのトマト好きを想って贈ってくれた名産の甘みきわだつ高級品「徳谷とまと」。食べるときに気をつかって果肉から種を採り、保存しておいたのを、この春に蒔いた。じつは、春先の天候の推移が烈しかったせいもあって、播種のタイミングとしてはやや遅い。トマトは俳句では夏の季語だけれど、もともとが南米アンデスの原産。冷涼で強い陽ざしを好むから、日本の夏の高温多湿は苦手なわけで、果実の旬は初夏と秋になる。ふつうは苗から育てるのがふつうだし、吹けば飛ぶよな頼りない種子から、素人が芽吹かせることができるものかどうか、気がかりだったが。ご覧のとおり、ぶじ芽生えた。立派に育って収穫できたら、もちろん友には返礼に贈る約束になっている。ことしの初夏がたのしみだ。*
◆所蔵「嵯峨本」のいま
前回、9日(水)No.1691の記事では、ぼくに「嵯峨本」に逢いたい想いがつのってきたことを伝えました。ヒトという生きものの性行は、それにしてもハテ面妖な。ヒョンなことがきっかけで、ヒョンな方面に駆け出してしまうのですから。
(ところで、「面妖」ってのも可笑しなコトバですよね。「めいよう=名誉」から転じたのが語源で「面妖」はアテ字…はワカリますけど、それにしてもハテふしぎ、ハテあやしげな…)
ともあれ。
どこに行けば逢えるか。
こんな場合、以前ならここと思しきあちらこちらへ電話をかけまくるしかないところ、それがいまはネットで気軽に(ま、ときに怪しいネタへの注意も必要なわけですが)調べることができる。
「嵯峨本」で検索したら、すぐに「国会図書館」と「国立公文書館」に所蔵されていることが判明。それも、いまはデジタルコレクションになっているのを、パソコン画面に読みこんですぐに見られる。
けれども、そのかわり、期待はずれの揺り返しも大きいのでした。
上掲・右の写真を見てください、これが「嵯峨本」とは、とても思えない。
ボクがかつて見た「きらり華やか」「はんなり」世界の面影、どこにもありません。
やっと、褪せた色紙の淡い面影と、いまは幻のような雲母刷りのあとがやっと判別できるだけ。
上・下巻124頁に挿絵が48枚…ですが、いまぼくは挿絵が見たいんじゃない、目的は「唐紙」。
「嵯峨本」の用紙には、前にも述べたとおり、鳥の子紙に礬水〔どうさ〕引きで染められた色紙に、金銀泥による「雲母〔きら〕刷り」(美麗な絹織物の綺羅とは別)がほどこされたもの。
(これが障子唐紙の元になりました)
ドキュメンタリー『唐紙~千年の模様の美~』に紹介された、「唐長」11代目、千田堅吉さんが再現をはたした映像によれば、「嵯峨本」には<水色、桃色、うす緑色>など日本の四季をあらわす5色がつかわれ。
この「唐紙」に、効果的に配された「雲母刷り」の模様には<光悦好み>の「萩」などが用いられました。
<光悦好み>の本阿弥光悦さんは、書道では「寛永三筆」の一人にかぞえられた能書家で、いわば元祖<和美のアートディレクター>。
「嵯峨本」の文字刷りには、木活字(木版活字)が使われましたが、その版下(下書き=母型)を書いたのも光悦さん。こうして、装丁にもプロの意匠が凝らされた豪華本。
それには、当時の日本の社会に、これを好んで受け入れる成熟した<読者層>があった(もちろん女性にことのほかよろこばれた)ことも見のがせないわけです。
◆小石川の「印刷博物館」へ
いずれにしても、いま見る「嵯峨本」に往年の面影なし。
こうした文物の場合、アテにできるのはむしろ、図書館・博物館系よりコレクター系の美術館でしょうし。
また、復刻版になら香りの一端はかげるかも知れない(ぼくがかつて見た「嵯峨本」もやはり復刻版だったのだろうか…そこまでの記憶はないのだ)けれど、それだってその専門分野の企画展でもないかぎり、おいそれとはお目にはかかれそうもない。
しかし、それでも……
このへんの心情、恋心とちっともかわらない。
もはや、なにがなんでも逢いたい、相手のいまがどうなっているのやも知れず、どんなに落剝しているかも知れなくても、つまり逢ってどうなるものでもなくても、とにかく逢いたい……
そこで、ふと思いついたのが、トッパン小石川ビルにある「印刷博物館」でした。
時代はちがっても、印刷は印刷、餅は餅屋。
調べてみると、常設展示に「嵯峨本」あり。
それに、図書館や博物館に行くより気が軽いこともあって。
桜花、舞い散る頃に訪れました。
凸版印刷。
いうまでもなく、大日本印刷とならぶ総合印刷の双璧、世界でも最大級の印刷会社です。
かつて神田神保町で「編プロ(編集プロダクション)」を主宰していた、ぼく。
出版社から受注する仕事の絡みで、トッパンとの付き合い多く、校了間際の出張校正室通いも頻繁、徹夜になることもしばしばあって。ゲラ刷り(校正刷り)の待ち時間に資料室を案内してもらったこともありました。
もともと神田界隈に多かった出版・印刷関係の仕事。
世代的に振り返ると、ぼくらの高校時代までは、もっぱら活版印刷の時代で。安く仕上げてもらっていた文芸誌の活字組み、その手伝いに街の印刷屋さんまで出張ったことも度々ありました。
次の「編プロ」時代は、「写植(写真植字)」の全盛期。鉛の<活字組み>から印画紙印字<切り貼り>への仕事の転換は、激変といってよかったのを覚えています。
そのトッパン。
飯田橋駅と、東京メトロ有楽町線「江戸川橋」の間、文京区水道にあるトッパン小石川ビルの中に「印刷博物館」はあります。
人類文明の発展とともに歩んできたコミュニケーション・メディア「印刷」の、歴史・価値から将来の可能性までを紹介。実物と映像に体験シーンも採り入れた興味深い展示になったいました、が。
さて、めあての「嵯峨本」のコーナー。
紙の劣化をはやめる光を極力おさえた薄暗い館内に見るそれは(……)やはり、色褪せた年代物の世界に閑〔しずか〕に息を潜めていました。
しかも、やむをえないとはいえ、ここでもそれはガラス・ケースのなか。見られるのは、わずかに1見開きの2ページのみ。
でも、パソコンのモニター画面で見るのとでは、肌合いがちがう。
前にも書きましたが、「嵯峨本」の「きらり華やか」「はんなり」世界は、いまの陽をあざむく照明とはまったく別次元の、仄かな灯火〔ともしび〕のもと、朧な火影にしかあらわれなかったことを懸命に想って。
ぼくは、しばらくそこに佇んでいたのでしたが……
いつのまにか、ふと(もういちど)と、心に呟いていました。
そのとき、脳裡には二つのことが、ありました。
ひとつの(もういちど)は、『嵯峨野明月記』を(読んでみよう)気になっていたこと。
もうひとつの(もういちど)は、「三原色」の認識を(あらためてみよう)ことでした。
『嵯峨野明月記』は辻邦生さんが書いた、「嵯峨本」にまつわる物語。
それを覚えていたのは、じつは、ぼく、経済的にも本が貴重だった大学時代に、いちどこの本を読みかけ、けれどもついに、そのときはその世界にひたりきれずに、途中で読むのをやめてしまっていたからです。
「三原色」は、「印刷博物館」にその体験展示があって、それぞれの色のプレートを重ねる装置になっていたのですが、ぼくには、スッキリとは腑に落ちないものがあったから。
しかも、それは、以前からずっと喉の奥に刺さったままの小骨みたいに、気にかかっていたからでした。
だから。
そうです、もういちど(……)
先に「三原色」の方の喉のコボネを抜いてから、『嵯峨野明月記』のお話しをしたいと思います。