どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

「木組博物館」…〝伝統技法〟と〝世界遺産〟の狭間

-No.1679
★2018年04月27日(金曜日)
★11.3.11フクシマから → 2605日
★ オリンピックTOKYOまで →  819日

 おはようございます、おげんきよう、<なっつまん>です。
 ……………





◆ビルのワンフロアに三重塔の<斗組>

 街中にある小さな博物館の、ひとつ。
 「街なかの小さな博物館」は、たとえば下町の墨田区に多いが。
 ここ新宿区にもある、「木組博物館」は早稲田の森(キャンパス)に近く、穴守神社と隣り合うビルのワンフロア。

 展示室に入ると、和の木造建築の精華ともいうべき、塔の斗組〔ますぐみ〕に迎えられる。
 重厚、そして、そのままが力学的にも理に適った〝実用の美〟をきわめている。

 ただ、ぼくら庶人には、実物との対面も見上げるカタチばかりの、ちと遠い存在、細部はたいがい映像や模型でしか見ることができない。

 それが、すぐ目の前にあった。
 …といって、これも模型には違いなかったが、そのスケール実物の75%までいくと、さすがにズンと重みのある見栄えが迫る、手を触れて木肌の質感を実感することもできる。

 それは、薬師寺三重塔(西塔)の初重(もっとも重量のかかるいちばん下の屋根)の支えの斗組。昭和56(1981)年、昭和の大棟梁西岡常一さんの手で再建された塔の斗組を、そのお弟子さんが再現したもの。

 「どうぞジックリご覧ください」と、正面に天然木の、一枚板の、テーブル椅子(?)を用意してくれてある。向き合って坐るとジワッとくる高揚感と幸福感につつまれる。

 塔の造営をその頂点として、日本伝統の木造建築は「木組」の技の集積である。
 柱、梁から小屋組み(屋根)まで、材を都合して、折り合いをつけ、補強の役もする、この技を総称して「木組」と呼ぶ。

 さらに「木組」を細かく見ると、長さ方向(タテ)につなぐ「継手」と、直角や斜めにつなぐ「仕口〔しくち〕」とに大別できる。
 大工仕事、場面場面でのくふうと、その展開・発展と、それらに不可欠な技の伝承と、歴史を積み重ねて、その種類は総数4,000にものぼる、といわれる。










 「継ぎ接ぎ」というコトバがある。
 日々の暮らしの場面では、いまはもう死語に近いけれど、ウチのオフクロなんかも習い覚えていた和裁の仕事「縫いもの」の世界では、タテに「継ぐ」、ヨコに「接ぐ」と言っていた。いまもそのふうはのこるが、現在ではまとめて「継ぐ」ことになっている。

 ともあれ、そうして継いで組んでいく「木組」の展示(常時30点ほど)が興味をひく。
 そのくふう、パズル感覚もあり、なかには「からくり」の妙味をもつものもあって、子どもにもオモシロそうだ…が、その精巧はまだ彼らの頭脳には難解にすぎるかも知れない。

 展示は「木組」が中心だけれど、展示室にはほかに「土壁の左官仕事」、「漆の塗り仕事」、「茶室建築の見本」もあれば、墨壷〔すみつぼ〕や鑿〔のみ〕といった道具類、錺〔かざり〕金物や和釘の展示もある、樹種実物の展示もある、と多彩。

 そのわけは、長く建築仕事の施工管理(現場監督)に携わって、「数寄屋」や「寺社造営」など、日本建築の真髄に親しみ、ぞっこん惚れこんだ方がこしらえた場だからである。
 
 開館の動機、いうまでもなく「後世に伝えのこしたい日本の建築文化」だが。その背中を押しているのは、材料・工法・人材すべての面での衰退という危機感だ。

 折しも、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の「無形文化遺産」、日本からの新たな登録候補に「伝統的な木造建築物の修理技術」がなった。いわゆる〝匠の技〟、いまは国の「選定保存技術」に指定されているものが、それで。
 受け継がれるべき伝統技術は、寺社建築の宮大工や漆喰壁仕上げの左官職にとどまらない、瓦・茅・檜皮葺きの屋根職、手縫いの畳職などまで広く含まれる。

 …ということは、つまり、それら職技が、いまでもすでに極く限られた範疇のものでしかなく、その〝存続・継承〟さえママならなくなっていることを意味する。
 さっきはただ「危機感」と紹介したけれども、それがじつは「かぎりなく枯渇に近い」ものであったわけだ。
 
 ぼくの文化財〝視観〟は、前にも申し上げたとおり「なんでも保存」ではなく、究極、あくまでも「のこるものがのこる」それが価値というものだ、と。
 その考えに揺るぎはないものの、一抹の無常観に憮然たるものがある。
 なぜか……




斑鳩〔いかるが〕の古塔がよみがえる

 …ことになるのを知ったのは、まだ大学生の頃だった。
 その頃、記録(ドキュメンタリー)映画に傾注していたぼくは、知遇を得たプロデューサーからこの話しを聞き、「記録映画に出来るかも知れないんだが手伝うか」との打診をうけた。
 いうまでもない、否〔いな〕はない。

 「プロデューサー捕」にしてもらい、さっそくロケハンを兼ねた下調べに奈良斑鳩へ、胸躍る想いを抱いて〝三井の里〟に出向いた。
 そこには、世界最古の木造建築群といわれる法隆寺五重塔を筆頭に、法輪寺三重塔と法起寺三重塔とがあって、かつては〝斑鳩三塔〟とも呼び親しまれた。

 その法輪寺三重塔(在りし日は最大最古の三重塔として国宝)が、落雷で焼失したのが太平洋戦争末期の昭和19年の夏、ぼくが生まれる1年ほど前のことだった。

 焼失直後から寺は再建を願ったけれども、全焼した塔は国宝の指定も解除。ようやく昭和30年代後半から始まった再建事業は、国の補助金もないなかで困難をきわめた。
 当初、三重塔はほかでもない<木造での再建>、つまり<斑鳩の古塔再現>だった。
 ぼくが現地を踏んだのは、その頃のことである。

 礎石のみがのこる塔跡に立って、ぼくは空を仰ぎ、塔の重量感を想った。
 裏山に上がって、その完成までを追いかける定点撮影のアングルをもとめたりした。
 再建造営の棟梁をつとめる西岡常一さんのお宅も訪ね、アポなしのぶっつけ、まことに不躾なことだったが、快くお話しをうかがわせてもいただいた。

「塔は、心柱です。できたばかりの塔の、心柱は礎石から浮いています。そう造る。つまり、完成したばかりの塔は、屋根の傾きが少し急になっている。それが百年経って心柱が心礎に納まり、三重の屋根もずっしりとしかも軽やかに鎮まる、そのように組み上げます」
 西岡棟梁のコトバはいまも、ぼくの心に沁みてのこる。

 法輪寺三重塔の木造再建が、前述のとおり困難とされながら期待されたのは、作家幸田文(父は森鴎外)さんが後ろ楯についていたからだった。
 余談だが、鴎外の『五重塔』は職人世界を描いた傑作だったし、ぼくにはそれより幸田さんの随筆「ちどりがけ」が、いまもつよく印象にのこっている。
 「千鳥掛け」というのは、布端のほつれを防ぐための裁縫の技法で、交差させるその針足が千鳥の歩き方に似ているからだが…。
 幸田さんが紹介したのは、それから派生した職人世界の振舞姿、意地の見せ方として「鳶(職)は誤って足場から落ちるときにも心がけて、足場材に脚を掛けつつ〝千鳥掛け〟に落ちるものだ」という、その男気にシビレルるものだった……

 ともあれ。
 こうして法輪寺三重塔は昭和50年に再建なった、わけだ、が。
 それは、ざんねんながら純な木造の〝斑鳩の古塔〟ではなかった。つまり惜しくも、昭和の名宮大工、西岡棟梁のもてる技のすべてが結集されたものではなかった。
 したがって、記録映画の企画も不発におわり、それ(だけが原因ではなかったけれども)がぼくを当時の旧映画界から遠ざけることにもなったのだった。
 これも人生の機微……

 このように、ぼくにとっては。
 木造の塔、木組への思い入れは格別なもの。

 最後に、もう一度、薬師寺三重塔の「斗組」に戻って、また一刻。
 それから、なぜか「ちどりがけ」の映像がまた脳裡に泛ぶのに身をまかせながら、帰路についたことだった。

 ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 来館者に伝統技法の理解を深めてもらうべく、さまざまな講習会の開催など<参加型>でいくこの「木組博物館」は入館無料(志納は受ける)。基本、火・水・木曜日の開館で10:00~16:00。https://www.kigumi.tokyo/

 なお、同じ趣旨のものに「建築道具・木組資料館」(墨田区菊川)もある。