-No.1675
★2018年04月23日(月曜日)
★11.3.11フクシマから → 2601日
★ オリンピックTOKYOまで → 823日
おはようございます、おげんきよう、<なっつまん>です。
*〝とき〟は過客、〝ひと〟は旅人…それにしても早いものですネ…「そだねぇ」!*
◆2020東京大会でどこまでヤレルか
平昌の〝パラ〟リンピックもオリンピックと同じく、日本もかなりの好成績をのこして終えて、あらためて課題も浮き彫りになった気がします。
すっかり暖ったかくなった時季を迎え、来シーズンさらには次の大会に向けて、沈着に熱く、考え、行動もしていきたいと思います。
見つかった課題は、3つ。
1つは、パラリンピックの開催時期
2つは、パラ大会は「障害者の地位向上につながるのか」の疑問
3つは、オリンピックと同じく必要な種目数(メダル数)の再考
まず<1>の、パラリンピック開催時期については。
「オリンピックより早く」にすることが、なにより肝心カナメ。
これは「パラ」大会の開催主旨を、「障害者に活躍の場を」「障害者に光りを」とするなら、あたりまえのことです。
今回、平昌大会の模様を見ても、オリンピックが済んだ〝後の祭り〟では、いかに雰囲気を盛り上げようとも、興味は半減せざるをえません。
はっきり言っておけば、そのこと自体が<差別的>。
ぼくは、「オリンピックはひとつの大会に」するのがイイ、と思っています。
つまり、パラリンピックとオリンピックを同時開催にする。
すでに健常者(別な見方をすればこれもたいへん差別的)と対等に競えるレベルに達している競技もあるのですから、そういう競技からは余計な〝垣根〟をなくす。
また障害の種類などによって、対等には無理のある競技は別にしますが、あくまでも開催の時期と場所は同じくする。
まだオリンピアンに限られる競技がある一方、「パラ」独特の進化をとげた競技(たとえば車椅子バスケとかスレッジ・ホッケーとか)もあるのですから、そちらには健常者もチャレンジできるようにする。
この考えは、社会貢献プロデューサーの竹井善昭さんも提唱されています。
新機軸をうちたてていくのに困難はつきもの、だけれども、そこはなにごとも前向きに、チャレンジ精神で伐り開いていかなくちゃ、ね。
2020東京大会を、ぜひそのきっかけにしてほしいものです。
政府の基本方針も「パラ大会を共生の契機に」と謳っているのですから。
つぎに<2>の、パラ大会は「障害者の地位向上につながるのか」の疑問。
これは、関係者の誰にとっても、パラリンピアンにとっても、重いテーマです。
このたびの平昌大会にあたって行われた意識調査では、「パラ選手の活躍が障害者全体への理解にはむすびつかないと思う」との答えが少なくありませんでしたし、「パラ選手と他の障害者とは別ものと思われるのがこわい」とする人さえありました。
選手たち個々人の訓練と努力、その結果あげた好成績には深く敬意を表するものです、が。冷静になって考えてみてほしい、それが、かならずしも自分たち障害者全体の理解に役だってはいない、としたら、これほど哀しいことはない…ちがいますか。
ほんとうに「自分だけがトクベツではない」のか、どうか。
自分もじつは、やっぱり「選ばれた者」ではなかったか。
ほかの、おなじ立場の障害者たちに、いつも自分の意識は向いている、と言えますか。
ぼくは、とくに福祉的な人間ではありません、けれども。
関連する活動に参加した経験もあり、そこで気づいたのは、障害者にもそれぞれにある個性を大別すると、内省的なタイプと主張的なタイプとがあって。
ここでもやはり、主張的なタイプが表に向いて立ち、支援者も進んでそれを助長する傾向にある、ということです。
どちらのタイプもひとしく尊重されるべきですが、なかなか…そこがむずかしい。
このギャップはまた、経済的にもおおきくて。
パラ・スポーツに心おきなく専念できる人は、やはり限られた、〝恵まれた人〟たちと言っていいと思います。
障害者に対する「理解は進んできている」と、いま、しきりに強調されています。
けれども、まだまだ注目度は低い証拠に、たとえば、パラリンピックに参加する選手層の薄さに注目する人は少ない。
かぎられた選手の間で、メダルが競われている事実には、あまり目が向けられません。
たとえば、こんどの平昌パラリンピック。アルペンスキー女子・座位の出場選手はわずか7~10人で、男子・座位の3分の1。全部で5つの金メダルのうち、村岡桃佳(21)選手のが1つ、ほかの2選手が2つずつ。
選手層の薄さを露呈したのはスレッジ・ホッケー(パラアイスホッケー)日本代表、最高齢は61歳(最年長)で平均年齢も42歳でした。
「スポーツの裾野を広げる」ことが求められる事情は、パラ・スポーツも同じことなのに……
<3>の、オリンピックと同じく必要な種目数(メダル数)の再考。
〝パラ〟も同時開催のオリンピックこそが理想とすれば、なおさらに、競技数・種目数(メダル数)ひっくるめて、きびしく<縮減>の方向で再検討が不可欠でしょう。
極論すれば、スポーツは<歴史>より<時代のニーズ>です。
男女平等、障害者も平等なのデスから、<ふやす>方向でいったらキリがない。
たいせつなのは「オリンピックに出たい」のはアナタだけではない、ということ。
たとえば、陸上競技には「ハーフ・マラソン」という種目もある。けれどもオリンピックには採用されていない。
競馬の世界には「クオーター・ホース」という、4分の1マイルの距離なら滅法はやい、サラブレッドにもひけをとらない種類の馬がいて、その個性、愛すべし。
だが、惜しいかなメジャーにはなりえていない。
そのような方向でつきつめて言えば。
どれほど優れていようとも。
一人のアスリートに、同じ競技でいくつものメダルが与えられるべきでもない。
ぼくは、そう考えます。
……………
ところで一方。
吾が耳に、まだ軽度とはいえ難聴の障害をかかえるボクは。
現状、そのパラ・スポーツとも一線を画されてある聴覚障害者の、国際スポーツ大会「デフリンピック」で頑張る人たちの存在が、より身近にある。
なのに、なぜ、差別されていなければならないのか、これも大いなる疑問。
昨年8月にトルコで開かれた大会で、日本選手団は金メダル6つをふくむ計27個のメダルを獲得しているのです。
……………
◆<成長>の時代から<成熟>の時代へ
そんな国際社会的な潮流のなかで、いま率先してスポーツこそは。
いかなる<差別>をも超えた、<成熟>の時代であってほしいと思います。