-No.1671
★2018年04月19日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 2597日
★ オリンピックTOKYOまで → 827日
おはようございます、おげんきよう、<なっつまん>です。
*「トランプ」のカードがジョーカー(冗談でしょう)ばっかり…*
◆おとつい(一昨日=17日)のつづき
春の椿事(体調悪化でドタキャン)があって…ハッとして、とっくり考えました。
……………
イギリス人は歩きながら考える。
フランス人は考えた後で走り出す。
スペイン人は走ってしまった後で考える。
(このあとにも確かつづきがあった)
…でしたっけ。
何処の何方〔どなた〕の箴言だったかは覚えてませんが、よく覚えてます。
ぼくと同じ人が、年配の方には少なくないでしょう。
このコトバの妙味は、「考える」ことを考えさせ、「考えない」ことを考えさせて、トータル「考えることのすべて」をワカッタ気にさせるマジックめいたところにあり。
じっさい、このコトバは、いろいろな意味が考えられ、考察がなされ、いろいろに味付けもされ、また時を経てもニュアンスを変えて生き抜いていく、そんなしたたかさを秘めていました。
ぼくなんか、いまだに、折にふれてときどきフッと想い出し。
けれども、好きなのは、なぜか。
「ぼくなら走りながら考える」
だった……
だけど。これ。
やっぱり無理がある。
なるほど「走りながら考え」られれば、余計な雑念を払拭できるメリットが「考えられる」けれども、げんじつには「かぎられた考えのなかでしか考えられない」。
つまり。
「走りながら考えたい」理想を胸に「たちどまってトックリ考える」。
これが、きっと、ホントなんですね。
……………
このたびドタキャンのぼくは、たちどまって、考えました。
そうして、気づきました。またひとつ、気づきをくわえたわけです。
でも、それがナニかは、言えません。
「気づき」は口にできない、口にしたときには<無>くなっているから……
ぼくは、凡人ではないつもりです、けれど賢人でもない。
ぼくは齢〔よわい〕70をかさねて、もうひとつ、いくつめかの「気づき」を積むことができた、というにすぎない。
それを別のカタチにしていく…その思案が芽吹いたことに、気づきました。
いま、そこにいます。
……………
ちょと、抹香くさいことになってきました、が。
ヒトにはそんなことがある、そう思ってやってくださいませんか。
「気づき」
もしやすると人にとって、このことの「ある」「なし」がすべて、ではないのだろうか。
そう、思います。
自然に意志はありません、あるかのように人が「思いなす」だけのこと。
<意志を思いなされた自然>というのが、きっと、自然〔じねん〕のカタチをとるのでしょう。
自然〔じねん〕が人にもとめるのは「気づき」だけ。けっして「叡智」や「智慧」ではない。
おなじことで、「後悔」も「苦痛」も「悲哀」も、もとめはしない。
「気づき」は「和〔なご〕み」。
人の世では「頭のよさ」や「智慧」ばかりが評価されますけれど、それだけならやっぱりダメなんで、そこに「気づき」があってこそ。
智慧をえた人には「気づき」がなければいけない。
これが自然〔じねん〕。
……………
どんなカタチでそれを伝えられるか。
70超、爺っちゃの歩みはつづきます。