どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

ヒトの「気づき」を「考える」

-No.1671
★2018年04月19日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 2597日
★ オリンピックTOKYOまで →  827日

 おはようございます、おげんきよう、<なっつまん>です。
*「トランプ」のカードがジョーカー(冗談でしょう)ばっかり…*



◆おとつい(一昨日=17日)のつづき

 春の椿事(体調悪化でドタキャン)があって…ハッとして、とっくり考えました。

 ……………

  イギリス人は歩きながら考える。
  フランス人は考えた後で走り出す。
  スペイン人は走ってしまった後で考える。
  (このあとにも確かつづきがあった)

 …でしたっけ。

 何処の何方〔どなた〕箴言だったかは覚えてませんが、よく覚えてます。
 ぼくと同じ人が、年配の方には少なくないでしょう。

 このコトバの妙味は、「考える」ことを考えさせ、「考えない」ことを考えさせて、トータル「考えることのすべて」をワカッタ気にさせるマジックめいたところにあり。
 じっさい、このコトバは、いろいろな意味が考えられ、考察がなされ、いろいろに味付けもされ、また時を経てもニュアンスを変えて生き抜いていく、そんなしたたかさを秘めていました。

 ぼくなんか、いまだに、折にふれてときどきフッと想い出し。
 けれども、好きなのは、なぜか。
 「ぼくなら走りながら考える」
 だった……

 だけど。これ。
 やっぱり無理がある。
 なるほど「走りながら考え」られれば、余計な雑念を払拭できるメリットが「考えられる」けれども、げんじつには「かぎられた考えのなかでしか考えられない」。

 つまり。
 「走りながら考えたい」理想を胸に「たちどまってトックリ考える」。
 これが、きっと、ホントなんですね。

 ……………

 このたびドタキャンのぼくは、たちどまって、考えました。
 そうして、気づきました。またひとつ、気づきをくわえたわけです。
 でも、それがナニかは、言えません。
 「気づき」は口にできない、口にしたときには<無>くなっているから……

 ぼくは、凡人ではないつもりです、けれど賢人でもない。
 ぼくは齢〔よわい〕70をかさねて、もうひとつ、いくつめかの「気づき」を積むことができた、というにすぎない。

 それを別のカタチにしていく…その思案が芽吹いたことに、気づきました。
 いま、そこにいます。

 ……………

 ちょと、抹香くさいことになってきました、が。
 ヒトにはそんなことがある、そう思ってやってくださいませんか。

 「気づき」
 もしやすると人にとって、このことの「ある」「なし」がすべて、ではないのだろうか。
 そう、思います。

 自然に意志はありません、あるかのように人が「思いなす」だけのこと。
 <意志を思いなされた自然>というのが、きっと、自然〔じねん〕のカタチをとるのでしょう。
 自然〔じねん〕が人にもとめるのは「気づき」だけ。けっして「叡智」や「智慧」ではない。
 おなじことで、「後悔」も「苦痛」も「悲哀」も、もとめはしない。

 「気づき」は「和〔なご〕み」。
 人の世では「頭のよさ」や「智慧」ばかりが評価されますけれど、それだけならやっぱりダメなんで、そこに「気づき」があってこそ。

 智慧をえた人には「気づき」がなければいけない。
 これが自然〔じねん〕

 ……………

 どんなカタチでそれを伝えられるか。
 70超、爺っちゃの歩みはつづきます。