-No.1541-
★2017年12月10日(日曜日)
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◆『日の名残り』
その文庫本(土屋政雄訳、ハヤカワ書房)は、受賞直後にもかかわらず、思いのほかすんなり入手できた。
ネットのブック・ストアから、まもなく送られてきた。
ぼくの読書の都合で、読むのが少しばかり遅れ、ぼくのスタイルが寝床読書せいで、日中の疲れがでると眠気におそわれたりするので、読了がいまごろになってしまった。
けれども。
導入の数ページを読みすすむうちに、「ノーベル賞」に得心がいった。
これは前にも述べたことがあるとおり。
ぼくには、正直、ノーベル賞がよくわからない。
よくわからい、こと自体、そんなものかも知れない気はしているのだ、けれども、しかし。
2015年スヴェトラーナ・アレクシエービッチ氏の受賞は納得で。
しかし、16年ボブ・ディラン氏の受賞はワカッタようで、それでいてなお選考のスウェーデン学士院に大向うウケを意識したところがあったような、気がしないでもなかった。
それよりも日本で、熱中的なファンを中心にここ何年も、村上春樹氏の受賞を期待する声が、かなりな程度に高すぎるのを訝しく思ってきた。
だからといってぼくはなにも、村上さんの小説を評価しないわけではない。
とてもおもしろい…と思っているし、彼のエンターテインメントは秀逸だとも認めている。
しかし、それならノーベル賞かといえば、それは違う。
いま大相撲の世界で横綱の品格が問われているが、それとはまた別のレベルのこととして、賞の品格にマッチするかどうか、だと思っている。
彼の作品に熱中するファンの方々には、そのへんの冷静な判断を聞いてみたい気がする(なにがなでもノーベル賞なのか…)。
村上春樹さんには、むしろ、1964年受賞ジャン=ポールサルトル氏とは異なる立場ながら、(もし授賞ということになったときには…)「辞退」こそがふさわしいのではでないか。
……………
失礼。
カズオ・イシグロ氏の作品について、であった。
叙述に品格がある。
自然〔じねん〕な語り口の、外連〔けれん〕味のない、これぞ王道の<小説>をひさしぶりに読んだ思いがした。
(ぼくは、氏の小説をこれまでに読んではいなかった…)
巻末、丸谷才一氏の解説にすぐれた「英国の状態」小説という評があった。
なるほど…
舞台は第二次世界大戦前夜から戦後にかけてのイギリス上流、貴族社会の周辺。主人公は政界の名士でもあるダーリントン卿に仕えた身の、いまは初老の執事。
有能な執事として自他ともに許してきた彼が、しかし、結果として、深く心服して仕えた卿の重大な失敗についに気づくことなく(気づこうともせず)。
また同時に、みずからの私生活でも、じつは自分に想いを寄せている女中頭との交流に苦くも失敗、しかもそのことにまるで気づかない朴念仁を露呈し。
ついに人生の暮れ方、旅のおわりにいたって…日の名残りに…老いの涙にくれることになる。
その過程を、たくみな舞台設定と移動によって、抒情ゆたかに描ききる。
みごとな作といっていい。
丸谷氏はまた、その評のなかで、カズオ・イシグロが、現在のイギリス人の生活と大英帝国の有為転変とをみごとにとらえられているのは、外国系の作家ならではの客観的視点と述べている。
これも、まさに、しかり…
これまで読んだことがなくても、ぼくがこの『日の名残り』を知っていたのは、これがアンソニー・ホプキンスの主演で映画化(1993年、アメリカ)されていたからであった。
しかしざんねん、ぼくは映画の方もまだ見られてはいない…
ついでに、もうひとつ。
カズオ・イシグロの受賞に際して、日本国には制度としてない二重国籍の所為(単に名誉の損)とする指摘があったけれど。
そんな評言なんぞも、ボクに言わせれば、細んまい、小せぇ…