-No.1468-
★2017年09月28日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 2394日
★ オリンピックTOKYOまで → 1030日
◆8月27日(日)、出家(ぼくの旅立ちをそう呼ぶ)
(しつこい)と思われるかも知れない…けれど、気になるものが放っておけるか。
この春の<福島巡礼>で、ぼくは富岡町夜ノ森駅付近へ立ち寄ることができなかった。
なにがあったかは知らないが、そのときにはなにしろ、沿岸部の大動脈、国道6号から岐け入れたはずの常磐線夜ノ森駅へのアプローチを、ことごとく拒まれた。
ぼくには、それが、寄り添えない気分、気がかりなシコリとして、重く心にのこった。
(ーNo.1377ー2017年6月29日記事「放射能汚染との格闘つづく常磐線」参照)
http://blog.hatena.ne.jp/sashimi-fish1/draft-scat.hatenablog.com/edit?entry=8599973812271620282
再訪。
この夏には予定しなかった福島<巡訪>だが、ここだけは別…の気分で常磐道を走った。
結果は、呆気ないくらいスムースに到達。いったいアノときの〝通せんぼ〟はナンだったのか…。
まぁ、こんどの場合は山側、富岡ICからのアプローチで、海側の国道6号からではなかったけれども、ワカラない。
狐ならぬ、放射性物質の雲霧にでもつままれた気分…。
風景だけはあっけらかんとして、夜ノ森駅の周辺は、常磐線最後の不通区間開通に向け、線路と周辺設備の整備が進んでいた。
夜ノ森駅を挟む区間で、常磐線は掘り溝のなかを通るような感じになっており、両側の堤上も、伸び放題に繁茂してしていた雑草が刈り払われ、荒野から鉄道沿線らしい風景へと衣替えしていた。
しかし…
心が冷えたのは、いまだにとりのこされた「帰還困難区域」と、隣接する「避難解除区域」のゲンジツ〝帰るに帰れない〟住環境であった。
あれから6年余の時を経て、住宅街の辻にはなお、自然と人類文明の相克が生んだオブジェが痛烈にいまを皮肉る。
裏庭にうちすてられたバイクの車輪のすぐ脇に、キリスト教団の警句「ただ信ぜよ」…であったり
役目を失った街角のカーブミラーの、外された「飛び出し注意」の看板が虚しく天を仰いで…いたり
これほどの重い結果、酷い辛酸を国民に舐めさせておきながら、なお、この国の司法は、原発爆発の責任を民間企業にのみ負わせ。
〝国策〟として推進してきた国の責任を認めようとはしない。
歪められ、ヒシャゲてしまった民主主義。
担当裁判官なら、せめて「帰還困難地区」間近の地に一夜をすごして想いみる、くらいのことができないで、ヨシとして恥じない判決ができるものか、どうか。
特別職国家公務員までもが<生活のためのお仕事>じゃあ、情けない。
この春、町民たちをよろこばせた桜並木を、ぼくもはじめて歩いてみた。
幅広く、想ったよりもすぐれて立派な道だった…が、それも駅近くで〝通せんぼ〟、バリケードの向こうの小屋から出て来た警備員が「すいません、まだここから先へは行けません」と頭を下げる。
こんな状況下にあって、どれだけの町民が〝帰還〟する気になれるものか。
けっして絶えて人がイナイ、わけではない。
帰還困難区域に通じる道路にも、公務であろう人の姿やパトカーの巡回はあり。
どこかの調査機関だろうか、付近一帯を徐行して巡る車も見かける、けれども…
素人ばなれしたムービーカメラを手に町を徘徊していた男に声をかけたら、「ニホンゴ話せないよね」と妙なアクセントでひとこと、無表情に無理な笑顔を泛べて街角に消えていく。目的は知れない。
帰還困難区域周辺では、イノシシやネズミなど野生動物の跳梁が指摘されているが、こんな不穏な情景も混じってきている。
「この先 帰還困難区域」の立て看板に、「富岡は負けん!」と宣言のシールが貼られてある。
このシール宣言は、原発爆発事故のすぐ後から、ぼくがこの町に見とどけつづけているもの。
……………
宣言の主は知りません、けれども、そろそろ出逢えてもよさそうな気がしています。
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