-No.1421-
★2017年08月12日(土曜日)
★11.3.11フクシマから → 2347日
★ オリンピックTOKYOまで → 1077日
◆「生還しました」
吾ながら〝大袈裟〟なことだけれども、実感だった。
毎年うけている町田市の成人検診、便潜血検査(検便)の結果、便に血が混じっていたことが判明。
先週4日の金曜日に、大腸内視鏡検査を受けてきた。
訪れた胃腸科医院に、お世話になるのはこれで二度め。
持参した診察券は、かかりつけ内科医のものに次いで古く、日付を見れば1997年8月、20年も前のことになる。
そのときは、真夏の瀬月内の島々を取材して帰ったあと、便に血が混じっているのにみずから気づいて、かかりつけ医の指示で検査を受けに行ったことを、いまもよく覚えている。
いい歳にはなっていたわけだけだが、気分は(まだまだ…)てんで浮浪雲。
尻の穴から管を入れるというので、(おカマを掘られるのか、ひょっとして気もちよかったりしたらどうしよう)なんて、脳転気というか不謹慎というか。
しかし、現実に、尻をひと目にさらす格好でベッドに横たわり、管が体内に入ってくると、そのなんとも言えず不安で不快な圧迫感に、20年前が一気に蘇る。
あのときと同じだ……
あのときも、じつは内心に消化器の不安を押し隠していた。
父は胃腸の弱かった人で、前立腺癌で亡くなっている。
乳癌を克服して生きた母は、心筋梗塞で逝った。
わが家系にも、癌体質があり、内蔵関係に弱点をかかえる。
自身にも、その傾向があることはワカッテいた。
鎮静剤の点滴をうけながら行われる内視鏡検査は、施術中の医師の動静が患者にもわかる、医師と会話もできる。
ぼくは、医師の手先より、モニターを見つめる気配、口もとからもれる呟きを聞き逃すまいと、懸命に耳を澄ませる。
「きれいになってます、お通じはいいようですね、腸のなかもきれいです」
医師が言う。患者をリラックスさせようというのだ、ワカッテいる…が。
ぼくが知りたいのは、そんなことじゃない。
1週間前から服薬制限(血液さらさら製剤などは中止)、3日前からは食事制限がくわわり、前日夜半から腸内清掃(?)の下剤で準備を整えて待つ。
入院患者なら別、ふだんの生活場面での、この非日常は心身に応える。心配は家族にまでおよぶ。
癌細胞が見つかりはしないか……
もちろん、癌細胞が発見されたからといって、はいソレまでよ、ではないけれど。
その瞬間から、世界はかわる、日常だった〝ふだん〟が遠去かる。
管は腸内壁を診察しつつ肛門から、大腸内を逆Uの字に進んで盲腸のあたりまで達し(このときが圧迫感の頂点)、出口へと戻りながら詳細に診ていく。
「ポリープがひとつ…」
さりげなく気くばりの声がする、このたびの施術は女医さんである。
これも20年前と同じだった。
結局、肛門に近いところで2つのポリープが見つかり。
「ポッチリした、腺腫ですね…いまはまだ良性ですけど、念のために切除しておきましょう」
これも20年前と同じ。
ぼくにもモニター画像を見せてくれ、目の前で切除もしてくれる。
粘膜の切除痕など、ほとんどのこらないように見える。
「あぁ、これ、ここに…以前のポリープ切除痕がありましたょ、きれいになってます」
その、言われて見ればなるほど周りよりやや白っぽく見える粘膜部分も、素人目にはほとんど見分けがつかない。
こうして、2つのポリープ切除を含めて40分ほどの施術を終了。
なお予後1週間ほどの安静と、もとの〝ふだん〟の生活にもどる注意を受けて、ぶじ放免(これも実感!)となった。
ポリープの3段階め「腺腫」というのは、良性であってもいずれ癌に変異するかもしれない怖れがあるもの、だから、いまのうちにとっておく。
「2年か3年に一度は、これからも検査を受けておく方がいいでしょう」
言外の意は、これもワカッテいる。
ぼくには、〝できもの(おでき)〟体質がある、油断はキンモツということダ。
切除したポリープの組織検査結果は1週間後にわかる。
こうして半日後。
しかし…いまのこの気分の、えらいチガイはどうだろう。
ポリープ切除はあったものの、〝三途の川〟の渡しの手前まで行って、あやうく逃れて帰ったようだ。
アルコールは2~3日ひかえるように言われているので、ノンアルコールの飲料でかみさんと、おとなしく乾杯。
そのかみさんもじつは、この春さき、便に潜血が見つかって同じ大腸内視鏡検査をうけ、彼女の方はなにひとつ翳りのない「〇」の結果に、諸手をあげて小躍りというシーンを演じたばかりなのであった。
70代に突入した爺っちゃ婆っちゃに訪れた人生の一点景……
でも、あとでよくよく考えてみると、コレはぼくにとってあるいは僥倖といえるのかも知れない。
放っとけば危なかったろうところを、少し前にさりげなく助けられている、と言えなくもないのだ。
いずれはおおごとになっていたかも知れない心臓の冠動脈狭窄を、たまたま発見され、リスクの少ない内科的ステント挿入術で救われたのも、かかりつけ医との軽い問診ともつかない話しがきっかけ。
「どうです、歩けてます?」
「それが、なかなかねぇ、歩けったって、近ごろはケッコウきついょ」
「それって心臓、それとも足の筋肉の方?」
「どっちもどっち、みたいな感じかなぁ」
「じゃ、いっぺん、精密検査しておきましょうか」
……だった、のだ。
「生かされている命」という。
わかってはいるが、気分としては煩わしいものがある。
命というのは〝わがまま〟なものだ。
〝わがまま〟に生きても赦されるうちは……
〝わかったような顔〟したくはない、が。
なるほど「生かされている」のかも知れない、と思う。