-No.1380-
★2017年07月02日(日曜日)
★《3.11》フクシマから → 2306日
★ オリンピック東京まで → 1118日
◆『みだれ髪』が鎮魂の唄に…
あの《11.3.11》大津波の被害は東北に限らなかったのは、いうまでもない。
あらためて「東日本大震災」と呼ばれることになったのはそのためで、被害は少なくとも千葉県房総にまで及んだ。
ぼくにもその意識はあったから、機を見、折を見ては、勿来の関から北茨城、五浦海岸にかけてなどへ足を向けてきた。
けれど…どういうものだろう、どうしてもやっぱり、いわき市(福島県)より北へと気もちは傾いてしまう。
とくに広野町と楢葉町の境、Jヴィレッジあたりから先が、正直〝原発〟との勝負どころであった。
そこへ踏みこむ心がまえに、スパリゾート・ハワイアンズに遊んだり、波立海岸に立ち寄ったりしてきた感がある。
こんどの〝ぐるっと福島〟行では、もうひとつ気になっていた岬、波立海岸の南にある塩屋崎を訪ねておきたかった。
きのう4日目の宿は新舞子浜の波音近いホテル。
このホテルも《11.3.11》の津波被害に遭い、1階部分を海波に洗われていたが、幸い人命は失われずにすんでいた。
ここから南へ、塩屋崎までは指呼の間。
そのあたりを薄磯海岸と呼んで、痩せた浜ぎわの道を縫って行く、カーナビのガイドは途中、ふと悩んだり、とり違えたり。
そこここで大々的な、嵩上げと道普請とが行なわれていて、明らかに以前とは状況が一変しているのだった。
あの《11.3.11》の津波、塩屋崎では南東方向から襲われ、盛り上がった海波は灯台の裾まで達して、付近の漁師たちの集落が浚われた。犠牲者は300人に迫り、灯台はそれから2年半のあいだ立ち入れなくなった。
観光客の訪れも絶えたが、岬の土産物屋は塩屋崎の陰に守られたおかげで流失を免れたのだ…と、あとで土産物屋の女主人から聞かされた。
塩屋崎を訪れる観光客のかずは、まだ震災前の3割程度だという。
きつい石段坂を息をはずませて上がり、さらに灯台の狭いらせん階段よじ登った台上からは、かつては〝常磐の海の難所〟と怖れられたという、底の方から湧き上っては流れるらしい、手ごわそうな海が眺められた。
なるほど、いい海藻と貝類の漁場であろうことをうかがわせる…が。
高所恐怖症のボクの脚は震え、尻の穴のあたりがムズムズする。
岬が人を惹きつけ、灯台が人を魅了するのは、昔も今もかわりない。
塩屋崎は、映画の舞台になり、戦後歌謡の舞台にもなった。
灯台へと上る階段下に、映画『喜びも悲しみも幾年月』(1899年、木下恵介監督)の記念碑がある。
ぼくも少年時代、両親に連れられ観に行った覚えがある、高峰秀子・佐多啓二主演のこの映画は、若山彰が唄った主題歌とともに大ヒット、美しい自然と厳しい生活環境とが人々の郷愁を誘った。
その後は昭和歌謡の大輪の名花、美空ひばりの『みだれ髪』1987(昭和62)年。
塩屋崎の灯台を振り仰ぐ園地に歌碑がある。碑の前に立つと歌声のながれる趣向は、ぼくの好むところではない、けれども……
いま「憎や 恋しや 塩屋の岬」の歌詞が、あの大津波被災の鎮魂歌になろうとしている、という。
考えてみれば岬(灯台)という存在、自然条件としてばかりでなく、人類史上の点景としても記憶されることが多い。
1899(明治32)年、近代式灯台点灯の塩屋崎の場合には、太平洋戦争中はアメリカ軍の攻撃目標にされた歴史がある。
おなじ岬が100余年の時を経て、大震災に見舞われたのだ。
美空ひばりの『みだれ髪』を、その鎮魂の唄とする意味はふかいのかも知れない。