-No.1268-
★2017年03月12日(日曜日)
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◆「ちょこざい」な「わからんちん」めが…「なにぉ、わかってらぃ」
きのうは、ふとした会話をきっかけに、「識字率」と「識見率」とにまつわる裾野の端っこ、ちょと撫でてみたわけだが。
言葉のもつ意味・意図に気をくばるキッカケは、たとえば夢にも、もとめることができる。
ボクには夢見が多い。それは「こんな夢…」と語るほどもない、つまり(ろくな夢を見ない)ほどのものだが。
だからやむなく、夢の見かたについては、それなりのくふうもしてみたわけで……
もちろん諸事おなじことで、即効性はない、けれども。
(いい夢をみたい)と想いながら眠ることをつづけていると、見られるようになったからオカシイ。
いい夢をみたい…といっても、雲をつかむようなことだから、やはりべつに手がかりがいる。
そのひとつが、コトバを思い泛べてみること、そう、思いつくままに。
夢見のこまかい内容は、朝起きてみると忘れてしまったいることが多い、けれど。
このコトバの場合はそれが少ない。
あらためて気になり、辞書をひくことも多い。
思えば、親や先生たちから「人に尋ねる前に、まず自分で辞書をひきなさい」とよくいわれた子どものころ。じつは、幼い立場から言わせてもらえば、興味をひかれることが多すぎてそれどころじゃないんダ、重い辞書と悪戦苦闘してるうちにどっかへいっちゃう…という事情もあって、つい「ねぇ、どうして…」身近なところに尋ねてしまうことになるのだった、わけだが。
いまになってみれば、「辞書で確かめる」ことがあきれるほどすんなり、腑に落ちている。
その辞書も、じつは一冊ではない。
頭に予備の、というか別にメモか付箋のようなものが付属していて、これを活用すると辞書がひきやすい、親しみやすいものになることもワカッテいるから、オドロキだ。
先夜もそれをして寝たら……
「ちょこざいな」という言葉が、風呂のなかでの屁ひりみたいにポコッと、いきなり浮いてきた。
時代がかっている、ボクには、そいうことがよくある。
つづけて「しゃらくせぇ奴めが」とくる、まるで江戸っ子ワールド。
「ちょこざい」は「さしでがましい、くそなまいきな、りこうぶった」ことだし、「しゃらくさい」もやっぱり「ぶん不相応になまいきな」である。
「猪口才」も「洒落臭い」もあて字にすぎないが、イエテル。
つまり、小利口で小賢しい余計者を非難しているのだけれど、それがどうもおかしな塩梅に、ボクが他人に言っているのではなく、逆に他人さまの不興を買っている様子。その証拠に、
「なにぉ、わかってらい」
なんてバカな見栄をきっている、「小癪な奴」が己だからイヤになる。
ついでに「癪に障る」の「癪」というのが気にかかる。
「癪」というのは、古典落語の世界によくでてくるから、言葉にはなじみがあるだが。
「(特定の病いを指すのではなく)さまざまな病気によって胸部・腹部におこる激痛」の通俗的呼称といっても、どうにもいまひとつピンとこない。
「腹だち、いかり、あるいはそのような状態になること」なんて解説になると、もうお手上げ。
これを、また「さしこみ」とも言うらしい、ますます混乱するばかり。
じつは〈辞書にも限界がある〉というより、〈説明の限界に迫る〉のが辞書の役どころ、といってともいいくらい。
そこへ、邪魔だ、どきな、と「癇癪」玉が炸裂。
こうなると「ちょっと癇に障る、いささか腹が立つ」どころではおさまらない、なにしろ「癪」のあたまに「癇」がくる。
いつもは万事におうような横町のご隠居の、なぜかしらん虫のいどころがわるくなったかして、感情の波だち激しく腹に据えかねる風情だ。神経過敏で怒りやすい性質〔たち〕の大家さんなんぞは「癇癖」と嫌われることになる。
けれども、これでもタチの部類でヤマイとまではいかないらしい。
年寄りが「癇」なら、子どもは「疳」、「ひきつけ」をおこす。
この言葉にはナットクの親御さんが多いのではないか。
そうこうするうちに、日が暮れかけて夕焼けの空に、なぜかカラスが「カー」と鳴くと。
真打登場は「置いてけ堀」。
なぜか魚がよく釣れた帰りになると、どこからともなく「置いてけぇ、置いてけぇ」と声がする…という、いわずと知れた本所七不思議のひとつで。
怪談みたいにドロドロしないところがイイのだが。
これが転じて「他者を見捨て去ること、置き去りにすること」をさす、となると、はて如何なものか。
「置いてけ」っていうから置いてったものを、あとから「置いてきやがった」と逆さに恨むのは筋ちがいというものだろう。
いくら語呂がいいとはいえ、「おいてけぼり」を「置いてけ堀」にされちゃ、そりゃあんた、ちょいと間がわるいってもんじゃないんですかい……
(おあとがよろしいようで)