-No.1174-
★2016年12月08日(木曜日)
★《3.11》フクシマから → 2100日
★ オリンピック東京まで → 1324日
*フクシマ原発事故から2100日。関係者にいわせれば「想定外にふくらんだ」賠償費や除染費用をひねりだするため、政府はあの手この手の「受益者負担」名目のもと、他人の懐に手を突っ込む算段をくりだすばかり。この国の民(の恵まれた層)は、あの酷な《11.3.11》もはや遠い日のこと、はやく忘れてしまいたいと見える*
◆9月13日、伊達いちご
義兄の一周忌、親族つどって2泊3日(古里の実家にサヨナラ)メモリアルツアーを行うなど、函館に5日の休日をすごし。
《11.3.11》2016夏の巡礼に復帰。
噴火湾をぐるりとまわりこんで、伊達市へ。
昭和新山を間近に仰ぐ広い畑作地帯に、イチゴのハウスを訪ねる。
旧仙台伊達藩仲間のよしみで、宮城県亘理町のいちご農家に「移住栽培にとりくんでみませんか」と伊達市から支援の声がかかり、5家族の人たちが移り住んで5年。
個人情報保護のバリアをかいくぐるようにして、ようやくのことに彼らの所在をつきとめ、定期訪問するようになってから……4年半。
短いようでも、この年月には、それなりに意味のある変化があったし、それぞれの人の在り方をも彩った。
働き盛りのC・Sさん夫妻には、「(移住生産に)失敗して古里には帰れない」意地と自負があり。
高齢になったA・Sさん夫妻は、故郷に帰って老後を養いたい気もちがつよく。
息子のH・Sさん夫妻は、この新天地に将来の希望を見いだしており。
故郷に老父母をのこしてきたH・Mさん夫妻は、いずれ帰郷に花を添えたい考えかわらず。
若く、この地で結婚もしたS・Oさんは、とうぜん腰をすえてがんばるつもりだ。
”伊達いちご”のブランドが根づくくことになるかどうかは、まだわからない。
けれど……
課題は、はっきり見えている。
ひとつは、「生食用(冬)いちご」より活路は「洋菓子用(夏)いちご」にかかっていること。
もうひとつは、冬の「耐寒対策」につきる。
イチゴの成長には最低8~10度が必要だが、道内でも温暖なところとされる伊達市でも冬の寒さは宮城県沿岸部の比ではない。
とくにこの1~2年は寒さ厳しく、A・Sさんの場合、8棟のハウスに費やした暖房の灯油代は、年(11月中旬~3月中旬)に600万円にもなったという。
洋菓子用イチゴの品質要求も高く、それにこたえる技術・方策の確率もいそがれる。
……………
その夜は。
ぼくたちとイチゴ農家の間をとりもってくださった当時の農務課長さんと、すっかり定番になった「飲み会」。
その後、勤務に移動があって、いまは定年後の嘱託身分のMさんと、年に一度の顔あわせは、巡礼の褒美というか…とにもかくにもありがたいものになっていた。
想えば奇縁、これも人生の不思議なオモシロさ……
◆9月14日、洞爺湖畔台風被害
その夜の酒席で、あれやこれや話題のあったなかで、いちばんにチュウイをひかれたのが、これまでにない動きの末に東北・北海道におおきな爪痕をのこした台風10号のこと。
このあたり、とくに洞爺湖畔には猛烈な風が吹いたと見え、
「山のひとつの斜面の、樹々がことごとく頭頂部をへし折られてました」
と、Mさんの目撃談。
Mさんはもともとが防災課の方で、2000年春の有珠山噴火でも第一線の現場で働いた経験をもつ。
災害への関心と注意はふかく、そうした経験がかわれてあの《11.3.11》のとき、亘理町イチゴ農家支援の担当を任された経緯もあった。
ぼくたちも翌朝、洞爺湖めざして駆け上がる。
ぼくらもまた、災害と減災への思いふかい者だった。
現場の湖に面した山肌と、湖畔の樹木の被害模様は写真のとおり。
生木がこのように無慚に裂ける事態は、厳冬の酷寒のほかにありえない。
有珠山噴火による広域の被害にくらべれば、一過性・局地的な被害とはいえ……
人為の遠くおよばない底力。
大自然の猛威をあらためて思い知らされたことだった。