-No.1061-
★2016年08月17日(水曜日)
★《3.11》フクシマから → 1987日
★ オリンピック東京まで → 1437日
◆時代・環境がかわった
(たいへんにきついから)公務をへらしてほしい、というのでは、ない。
全身全霊をこめ国民に寄り添うことこそが、骨髄。
ほかの行為もすべて、この真心にしたがう。
天皇という日本国・国民統合の象徴としてのやくわり、ほかにない。
それが、とどこおりなくできていく天皇でなければ、いけない。
そして、とどこおりなく継続されることをのぞむ、と仰る。
「おことば」の真意、これにつきる。
それは、終戦記念日の翌くる日、全国戦没者追悼式で述べられた「おことば」に、ことしも「過去を顧み、深い反省」の思いがくりかえされたことでも、あきらかなとおり。
そのお気もちに、国民のみなみなが想いを寄せ、賛意を示した。
テレビ放映を見つめる国民のまなざし、また、天皇のお気もちに寄り添った。
〈膝を折って〉渾身の親身で寄り添う天皇・皇后両陛下に、こころゆさぶられてきた国民の、正直な心もちである。
「元気なお姿をもっと見たい気もちだけれど…」「やすらかな日々を…」
この国民の誠心誠意を、どう酌むか、どうあらわすか。
こんどは国民・国家のほうに、その度量のほどがとわれている。
皇統の歴史といい、制度のあれこれをいうけれど、なによりだいじなのは……。
国民と天皇のあいだで守りあわれる、「尊厳」と「尊重」、これを忘れてはならない。
保坂正康氏の思いきった指摘、「天皇の人権宣言」と考えていい。
その意味で、法律・制度の検討にあたっては、ぜひ文化人類学者および民族学者の考察をくわえてほしい。
すでに神代の時代は遥かに遠く。
累代のあれこれも、すでに霞のかなた。
はっきり言えば、昭和天皇で過去の”皇統時代”はおわり。
いまの今上天皇から、現代・未来の新たな”人間天皇”の時代がはじまる、といってもいい。
かつてあった大日本帝国憲法、旧皇室典範のもとのでは、政治的な統帥権と統治権をもつ天皇制であった。
そこに(ある意味ではとうぜん)私人の立場はなく、それまでの時代は戦争の愚行をまねいて終わった。
戦後の憲法によってはじめて、国民の個人としての自由や権利が認められたのに、天皇を規定する皇室典範のほうは、ほとんど旧態のままであった。
かわって、とうぜん。
個人としての、天皇の「お気もち」表明もまた、とうぜん。
そう考えるのが、自然だし、道理というものだろう。
美智子皇后が(天皇の理解のもと)とりくまれた〈新しい皇室〉、〈開かれた皇室〉の在りかた追求も、こんどのことをもってその仕上げとなるのではないか。
政府は、憲法改正の理由を国際的政治環境の変化、時代への対応とする。
ならば、まずさきに(時代と環境に正対した)天皇の在りかたを正し、国民の信頼を獲得するのが、すじだろう。
国会は、この国民の付託に、誠実にこたえる義務がある。
(まさか…よもやあるまいとは思うが)この機を利しての援用(我田引水)などもってのほか、いうまでもなく。
国民は監視の目をもって見守っているのを、忘れないでね……