-No.1037-
★2016年07月24日(日曜日)
★《3.11》フクシマから → 1963日
★ オリンピック東京まで → 1461日
◆〈忘れ潮〉最終日の6月9日
(マイッタな、こりゃ…かなり草臥れちまってらぁ)
昨夕、津堅島から残波のホテル日航アリビラに帰着したとき、ぼくは感じていた。
それは、いつもなら、ひと旅おえて吾が棲家に帰ったときに、はじめて感じる種類のものだった。
つまりは、「お疲れ」の前倒し。
夕食も、珍しくアルコールの摂取もそこそこに、ベッドにもぐりこみ。
(坐りこみは、ちと無理かな……と、これはつまり、辺野古のキャンプ・シュワブ前に行く、ことを諦める気分にほかならなかった)
想ったときには、すでに、睡魔にひきこまれていた。
……………
今朝、起きたときに、昨晩の気分を再確認。
かわりに、せめて、キャンプ・ハンセン沿道を訪れ、遺体遺棄された沖縄女性に慰霊の手をあわせて行こうか、とぼんやり考え。
しかし、その気さえも、朝食後に腹をこわしていることに気づくと、にわかに萎えてしまった。
このたび沖縄に来てから、毎朝の腹下しがつづいて、心身を消耗したことが響いていた……
◆リゾ-トでの休養
梅雨の晴れ間…とはいいながら、沖縄の陽の暑熱とまつわりつく湿気に、ボクはついにギブアップ。
やむなく、午後早く帰京の飛行機まで、スペイン風リゾートホテルでの”休養”をあじわうことになった。
このホテル・アリビラには、二つの趣きのことなる教会がある。
ということは、祝福のウェディング・ベルを聞きに訪れるカップルも少なくないのだろう。
そう思ってコンシェルジュに訊ねたら、「多い日には一つの教会で4~5組の挙式がある」という。
そういえば今朝も部屋のヴェランダから、大きな荷物を運びこむカップルを見かけたものだった。
ブライダル・パーティーの演出に人気があるらしい。
「ニライ」と名づけられたビーチはすでに開かれていたが…ひと足はやい夏をもとめてやってきた客たちの多くは、プールサイドに憩っている。
砂浜で海水を手にすくってみると、まだ少しばかり冷たかった。
着いた日、オカヤドカリ「ウォーリー」に別れを告げた場所に行って見ると…。
(7月17日記事参照http://blog.hatena.ne.jp/sashimi-fish1/draft-scat.hatenablog.com/edit?entry=6653812171404311310)
墓標に立てておいた3つのサンゴ石の、両脇の小さい石は下砂をほじられてもはや傾き、ウォ-リー形見の貝殻(ぬけ殻)はすでに消えていた。
天然記念物にしては、おどろくほど個体数の多いこの浜のオカヤドカリたちのどれかが、さっそく棲家に〈宿借り〉していったものとみえる。
大自然の営みは、まことにそつなく抜け目なく巧みなものだった。
◆壁掛シーサーをみやげに…
午後のフライト。
滑走路を離れ、上昇をつづける飛行機の窓から、ズームアウトしていく那覇の街。
建て混んだ風景は、日本の都市の特徴だけれど…ここには圧迫感というものがない。
それは高層ビルの林立というものがないからで、それだけで人を緊張から解き放つものがあることを、あらためて知る。
ついさっきまで浜砂を踏んでいた残波の海を眼下に見おさめ。
ぼくは、沖縄慰霊の日(6月23日)が近いことを想った。
「鉄の暴風」といわれた沖縄戦は、アメリカ軍の残波岬への上陸から始まった……
ジェット機のスピードは、まもなく本島北部の離れ島を見送って、白く輝く夏雲の層をつきぬけた。
前回の沖縄の旅では、知らぬ間に一握の浜砂にまぎれこんできてしまったオカヤドカリ「ウォ-リー」が記念だったが。
こんどは、その「ウォーリー」のなきがらを古里の浜に還し、別れを告げた旅。
手荷物のなかには、かわりにもとめた記念の壁掛シーサーがある……