-No.0967-
★2016年05月15日(日曜日)
★《3.11》フクシマから → 1893日
★ オリンピック東京まで → 1531日
◆くどくどと字幕でながすほどのことかな…
往年の映画作品などを、テレビで放映するとき。
冒頭の黒バック画面に無音で白々と流れる「おことわり」。
「不適切な表現のところがありますが、時代背景や製作者の意図を考慮して、そのまま放送します」
といったような趣旨のもの。
スラングなど差別的な表現を指すこともあるようだ、けれど。
毎度、まるで不感症のごとくに見逃していることが、ふと不快に思えた。
わざわざ「おことわりする」までもない、ささいなケースが多いばかりじゃない。
そもそも、こうした映画作品、劇場公開されたときには、もちろんそんな無粋な断り書きなどありはしない。
わかってます。
劇場公開の場合は、観る人の意思による選択があるが。
テレビ放映となると、選択意思を無視した受容の惧れがある。
とでも言うんでしょうが。
思えば、この「おことわり」習慣は古くからありました。
それは、「文部省推薦」と対極をなすものでもありましたっけ。
ぼくに覚えがあるのは、「部落問題」にまつわるアレコレのこと。
いまも、なお、消えることなく綿々とつづく〝差別〟意識の温床というのでしょう。
それは、わからないでもない…けれど。
差別表現とされるものにしたって、なかには表現者の人格的個性と、表現法の諧調によって異なることもあるし。
それらを、ひとくくりに決めつけることのほうが、ぼくはオソロシイ。
とにかく、なにしろ、「おことわり」字幕。
これって、視聴者のレベルというものを、あまりにも低く見すぎてはいませんかね。
いまの、少なくとも最新の選挙権を持つ一般ふつうの人であれば、そのへんの事情を察するくらいはできるじゃないか。
(そりゃ、いつの世にも、どこにだって、箸にも棒にもかからない類の人は、かならずかぎられた数あります、それが人間という高等とされる生物種の、ざんねんながら限界かも知れない)
もし「いやいや、なかなか、そうでない」というのなら。
どうだろう、一日、全国民参加の討論会を開催して、「問題の表現とは如何なるものなりや」を話し合ってみたらいい。
それでもし、「なるほど未だし」という状況であれば、やむをえない。
人々は、あらためて「おことわり」の背景に注意しつつ鑑賞すればいい。
放送倫理とかいうものにしたって、他人任せに、事なかれに、というんじゃ、あんまり情けない。
ひとかどの見識をもって、妨害があれば跳ね返すくらいの、度量と矜持がほしい。