-No.0923-
★2016年04月01日(金曜日)
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★ オリンピック東京まで → 1575日
◆なぜ騒ぐ
3月26日(土)、北海道新幹線開業。
九州から列島を北上した新幹線がついに津軽海峡を渡るというのだから…その大騒ぎぶりも、わからないではない。
それに、せいぜい大騒ぎして利用してもらわないと営業上こまる、という鉄道会社の事情もあるし。
しかし……
ちょっとヒイたところから眺めると、じつは「それほどのことでもないじゃん」というのが、正直な感じ。
北陸新幹線開業のときもそうだった。
報道関係こぞって、地元の熱狂ぶりを感動的に伝えようとする…ほどには、大衆はけっして熱狂してはいなかった。
「ふ~ん、いいんじゃない、こんど行ってみようか」
その冷静な感想は、旅行文化の成熟といっていい。
されど……
先日も北陸から帰ったボクたち夫婦、あいかわらずの満席に近い新幹線人気には、いくらか呆れた。
この風向きは、いったい、どこからよって来るのだろう。
◆「はまなす」ラストラン
さて。
新規開業には、”お別れ”もつきもの。
こんどの北海道新幹線開業にあたっては、まず。
青森-札幌間の急行「はまなす」が廃止になり、3月21日深夜ラストランが出発。
これが特筆される理由は、JRの前身〈国鉄〉時代から1世紀あまり、走りつづけてきた定期急行列車が、「はまなす」を最後にすべて姿を消すことになるからだ。
各駅停車の普通列車(”鈍行”とも)を超えて早く、乗り心地もすぐれた都市間輸送の主役が”特急”なら。
”急行”は、それより安価で使い勝手のいい列車、とくに学生に多く支持され利用された一時代があった。
けれども……
1970年以降、”特急”の大衆化が進められ、それは、実際には”急行”の格上げだった。
その背景には、人々の生活ぶりが向上し、若年層の懐具合もよくなった(?)ことがあった。
はっきりいえば、若者たちの多くが、早くて便利な”特急”に乗りたがった。
そうして”急行”は、だんだんに居場所を失い、数を減らしていった。
さらに……
急行「はまなす」が記念碑的なのは。
そのデビューが、青函トンネル開通の1988年春であったこと。
2000年以降は道内唯一の、12年以降はJR唯一の”急行”という道を歩んでの、このたびの廃止。
88年の「はまなす」デビュー時は、すでに〈若者仕様の旅〉から遠ざかっていたボク。
乗るチャンスないままにすごしてきたのだったが、たまたま昨年秋、北海道の義兄危急のときにかけつけたおり、列車乗り継ぎのやりくりで奇しくも乗車することになった。
心せかれる旅、しかも新幹線車中は東京から立ちっぱなしの疲労もかさなってはいたが、まさしく昔ながらの〈若者仕様列車〉旅のニオイ、深夜は車内の照明を落として青函トンネルを潜る旅愁、固い背もたれに身をあずけ、暗い窓外に目を凝らしつづけた……。
◆青春の「八甲田」
ぼくの手もとに、古い『時刻表』がある。
1972年3月号、新幹線岡山開業にともなう「全国白紙ダイヤ改正」版。
これはボクが、総距離12771.7kmの国鉄「片道最長キップ」を手に、65日間の鉄路の旅をしたときのもの。
〈青春の日〉の記録だった。
その東北本線のページに、急行「八甲田」がある。
上野発19:05、青森着(翌朝)6:15、乗車11時間10分。
同じころの特急には、「はくつる」と常磐線経由の「ゆづうる」があった。
急行仲間では「十和田」があった。
ビジネスマンや、暮らしにゆとりのある人は、はやい特急に乗った。
時間をかけて急行で行くのは、学生など若者たちや、特急が停まらない小さな地方都市の人たち。
行商さんたちも乗った。固く窮屈な座席を降りて、わざわざ床に寝る旅の達人もいた。
終点青森には、北海道へ渡る青函連絡船が待っていたのだけれど…。
夏などの急行「八甲田」には、東北の山々、たとえば早池峰登山に行く人たちも乗っていた。
北海道ではこの頃、函館本線に特急「おおぞら」と「北斗」が走り。
急行は「すずらん」、この列車にもずいぶん世話になったものだ。
急行「八甲田」が廃止になったのは…いつだったか?
いまの「はまなす」とおなじように、惜別の場面があったのだろうが…。
ボクは、遠くからそれとなく見送る、あるいは影ながらひっそりと見送る方だった。
いまも、そういう人は少なくないと思うのだが。
寂しがり屋が多いのだろう、孤独な日々をおくる人が多いのだろうと思う。
近ごろ、ちょっと〈いまらしい〉風景は、「ごくろうさま」とか「わすれない」などと書いたプラカードふうのものを持参する人があること。
明らかに報道の取材を意識しており、これなども孤独な心の裏返しかもしれない。
……などと、あれこれ想ってみたりする。
ぼくは、寂しさに耐える人、でありつづける。