-No.0913-
★2016年03月22日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 1839日
★ オリンピック東京まで → 1585日
◆引揚船の港へ
松葉ガニの海…香住・城崎温泉海岸あたりから、北陸路へ向かうのに。
列車の旅では、いったん京都に出てから北陸本線で、ということになる。
”乗換案内”でも必ずそうなる。
山陰本線の豊岡から、宮津線(現在は京都丹後鉄道線)と小浜線を乗り継いで、北陸本線の敦賀へ抜ける。
丹後半島と若狭湾岸沿いを抜けるルートはあるのだ。
けれど、まぁ、ほとんど無視される。
鉄道路線が、アルにはアルのだから”空白地帯”ではないが、不便で利用価値が低いのだから”鉄道僻地”といっていいだろう。
ナゼか、ぼくは、こうした僻地ムードに惹かれやすい性癖をもつ。
このたびの旅。
ぼくが不便を承知で〈乗り継ぎ〉、〈乗り越え〉たルートどりと時刻表は下記のとおり。
・香住8:28 - 8:57城崎温泉(山陰本線、普通列車)
・城崎温泉9:33 - 10:42福知山(山陰本線、特急こうのとり12号新大阪行き)
・福知山11:05 - 11:48東舞鶴(山陰本線・舞鶴線、普通列車)
・東舞鶴13:36 - 15:31敦賀(小浜線、普通列車)
・敦賀15:34 - 16:17芦原温泉(北陸本線、特急サンダーバード25号金沢行き)
これが、ギリギリいっぱいの旅程。
京都経由なら、もちろん、もっと、だんぜん、楽々と到達できている。
東舞鶴での待ち時間およそ2時間は、この間に列車がない、つまり動かすほどの利用客が期待できないから。
しかし、そんな〈超不便〉がラッキーになることもあるのが旅…でもある。
ぼくが無理をおして、わざわざこんなコース選びをしたのは、舞鶴という土地に立ち寄ってみたかったから。
そのためのこの日一日、だった。
朝から、冷たい雨が〈山陰(地方)の黒瓦(屋根)〉を、しとどに濡らしていた。
レールも沿線の風景もずっと、しっとり濡れそぼっていた。
「アノ……戦後の……引揚船の……興安丸という船が……着いた桟橋があったと思うんですが……」
東舞鶴駅の案内所で尋ねると。
「はぃ、引揚桟橋にいらっしゃりたいんですね」
若い女性の即答がかえってきて、ぼくは驚いた。
じつは、ここ舞鶴の地についてだけは、ボクはなんの知識もないぶっつけ本番できていた。
ふつうなら訪れる土地柄について、ザッとでも下調べをしておくのがぼくの旅の流儀だった、けれど。
ここ舞鶴の港、引揚船興安丸が着いたところのことに関しては、幼いころの記憶にまかせておきたかった。
出逢えればヨシ、出逢えずともまたヨシ……
それが、「引揚桟橋」というのがちゃんとのこされている、という。
「記念館」もあるという。
考えてみればとうぜん、そうあるべきものだろうが、旧いラジオからの放送がよみがえったかのようだった。
「バスもありますが、便が少なくて」
ひととおりの説明をしてくれたあと、申しわけなさそうにいわれて、タクシー乗り場へ。
行き先を告げると、運転手さんの心え顔が訪客の少なくないことを物語る。
日本海を行くフェリーに、〈舞鶴-小樽〉航路というのがある。
ぼくの憧れだったが、乗船体験の記事を書くために乗ったのは、諸事情あって別の〈敦賀-新潟-小樽〉航路になった経験もあり。
その乗船が荒天の荒波の揉まれ、能登半島沖で積み荷に荷崩れがおきたため、いったん敦賀港に引き返すという騒ぎがあったことなど想いだす。
「そのフェリー桟橋も、こっち、東(舞鶴)港ですよ」
運転手さんの説明によると。
「…ですが、東港は水深が浅めなんで、ほかの巨きな船はみんな西(舞鶴)港。街も西の方が古くから栄えた港町で、こっちの東は新しく開けた町なんです」
若狭湾からの出入り口が狭く縊れ、中が逆ハート型といでもいおうか両翼に分かれた舞鶴の港は、西と東とではおよそ10kmも離れている(…とは思ってもみなかったボク)。
舞鶴線には西舞鶴駅と東舞鶴駅があって、なにげなく終点の東舞鶴まで来てしまったわけだけれど、その東港の方に「引揚桟橋」があったのは、これも運がよかったことになる。
車は、まさしく天然の良港の波静かな汀を縫って行き。
やがて東港の端の入江へ。
「ここに昔は海軍工廠がありまして、その後が引揚援護局になっていたもんですから、受け入れにも都合がよかったんじゃないでしょうか」
そこに復元された木造りの引揚桟橋は、長さ15メートルばかり(もとは45メートルほどあったとか)。
(ぼくのイメージとは色も臭いも異なったけれど…)引揚船の風景といえば『岸壁の母』であり、それゆえ船は石の桟橋に接岸した…ように思われていたのだが、じつは違っていた。
「あの橋が架かっているでしょう、二つある橋脚のちょうど間あたりに引揚船は錨を下ろしたようです」
運転手さんが指し示す海上を跨いでいるのは、二羽の鶴をイメージして造られたという大きなクレインブリッジ(斜長橋、全長735m)。
そこに停泊した船から、引揚者たちは艀〔はしけ〕で桟橋に上陸、援護局での手続きを経て、また別の小舟で町の港へ運ばれ、そこから鉄路、全国各地へ散って行ったのだという。
「お帰りなさい、ご苦労さまでした」
出迎えたラジオ・アナウンサーのインタビューは、ねぎらいの言葉からはじまり……
「お帰りになる故郷は、どちらですか」
とつづけられたのを、覚えている。
昭和20年8月15日の敗戦によって、島国日本の(軍関係者も含む)人民は、大陸やアジア諸国、太平洋の島々などに約660万人がとりのこされ。
これらの人々を祖国へと帰国させる「引き揚げ」が、忍苦のなか進められた。
舞鶴港は、主に旧満州や朝鮮半島、旧ソ連(シベリア)からの引揚者受入港として、船を、人々を、迎えつづけ。
はじめは、ほかにも浦賀や佐世保、博多などあわせて10をかぞえた指定の港が次々と廃止されていくなか、昭和25年以降は舞鶴が唯一の引揚港となった歴史があり。
昭和33年までの13年間におよそ66万人(全引揚者の約1割)を迎えつづけ、引揚者たちにとっては”祖国第一歩の港”になった。
引揚船はほかにも、たとえば氷川丸(横浜の山下公園に係留保存)などあったけれど、ぼくの記憶の襞にきざみつけられた船名は「興安丸」。
歴史をひもとくと、昭和28年に中国引揚第一船として就航とあるから、それはボクが8歳のとき、ものごごろついた頃と一致する。
「興安丸は、どうなったんでしょうね」
ぼくの問うともない呟きに、運転手さんもため息。
「さぁ…知りませんがきっと、もう、廃船になってるでしょうねぇ」
帰ってから調べたら、興安丸は1970年に解体され、生涯をおえていた。
関釜(下関-釜山)連絡船として、この船が建造されたのは戦前の1937年、命名は中国東北部にある大興安嶺山脈にに由来するという。
これなども、いまではとても考えられない……
ぼくたちは、「語り部の鐘」水面に響かせ、桟橋に黙祷の手を合わせて、辞去した。
いれちがいに、タクシーで乗りつける別のひと組があった。
記念館の資料見学は、ときをあらためてまた…のことに。
世界記憶遺産に登録されてから訪れる人が多くなったそうで、建物も新しく、展示物も充実したという。
「ぼくは、たまたま終戦の翌日、昭和20年の8月16日に生まれたもんですからね」
「そうでしたか、あなたも引揚の方かと思いました……お見えになっても、ナニも覚えてないと仰る方が多いです」
駅に戻って、運転手さんと別れ。
これで、またひとつ、戦後70年の礼をかなえ、少し軽くなる気分があった。
敦賀に向かう小浜線も、あいかわらずの冷たい雨のなか。
去年、金沢まで開通した北陸新幹線。
最近、大阪までの延伸予定ルート3案が示されたが。
そのひとつに舞鶴ルートがあり。
(可能性はある……希望はあるな……)
ぼくは想った。