-No.0864-
★2016年02月02日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 1790日
★ オリンピック東京まで → 1634日
◆9月1日を忘れるな
父の会社の保養所があったので、伊東温泉は子どもの頃から知っていた。
斜面に建つ宿からは海が眼下に望め、つまさき登りの畑でミカン狩りの記憶がある。
眺めのよさと一緒に、ナニかあったときのコワさも感じさせられた。
半島というのが大概そうだが、海岸からスグのところに山地がせまる。
その後、伊豆半島との縁が深まるにつれ、大きくはなかったが何度かの地震を経験。
そのたびに、イザというときの避難ルートを脳裡に描きつつ、箱根方面へと逃げ。
奥に行けば行くほど、つまり南伊豆あたりまで入りこんでしまうと、脱出には非常な困難がともなうことを覚悟させられた。
だから…。
東海岸であれ、西海岸であれ、伊豆半島入りするときにはかならず、緊張の糸ひとすじ。
《11.3.11》東日本大震災をきっかけに、各地で古文書の震災記録見なおしや、震災・津波供養碑の検証がすすめられた。
伊東市内にも、そうした事蹟がのこる。
はじめに訪ねた仏現寺は、市中温泉街の高台。
境内から伊豆の海が見えるこの寺には、江戸時代・元禄大地震(1703年)と大正時代・関東大震災(1923年)の津波犠牲者供養塔4基がのこる。
元禄大地震では163名、関東大震災では105名の犠牲者。
関東大震災(震度6)の供養碑には「九月一日ヲ忘レルナ」と大書された下に「老幼相扶ケ安全ナル高地ニ避難スベシ」と刻まれていた。
小雨そぼふる凍てつく空気のなか、庭の万両の実の紅、ミカンの実の黄橙が注意を喚起する。
ただし、この寺までが津波に襲われることは、さすがに、まずなかろう。
◆石段にのこされた爪痕
もう一ヶ所、もっと切実な事蹟は、川奈の海蔵寺。
港から200メートルほどの山際に建つこの寺、境内へと上がる石段には、関東大震災の津波が到達した下から6段目のあたりに、「つなみ浸水石」が据えられてあった。
この石段には、あと二つ、津波伝承がのこされており。
それによれば、安政東海地震(1854年)の津波は下から3段目まで。
最大規模だった元禄地震の津波は上から3段目まで届いた(波高およそ8㍍)といわれる。
すぐ目前まで津波が迫った境内の一隅には、海豚〔いるか〕供養の碑。
低気圧の接近で波荒い漁港近くの辻には、「ここは海抜2.5m」の標示が雨に濡れていた。
伊東市では《11.3.11》以後、29ヶ所を津波避難ビルに指定したそうだが、ざんねんがら川奈地区にはそんな条件をみたすビルはない。
避難訓練では、いったん海蔵寺に集合したあと、さらに裏の山道を登って、海抜約40㍍の幼稚園まで住民を誘導したという。