-No.0791-
★2015年11月21日(土曜日)
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◆うっとりと恍惚の極みを感じるのは…
どんなときか。
日が暮れて、くたびれて、しのびよる寒気にストーブを点けながら考えた。
ぬくぬくしてくると、不覚に”あくび”がでた。
仰向いて、おおきく口を開けると、たまらなく気もちがよくて、(これだな)と思った。
陶酔境とか、恍惚感とかいえば、酒か音楽か、いやそれよりもセックスか…。
若い頃には、そんなふうに思ってみたりもしたけれど、期待と現実の間にはけっこうおおきなギャップがあった。
たとえば魚たちなら、産卵と受精の瞬間がそれにあたるわけだが。
必死に懸命に身をよじり奮わせ、口を大きく喘ぎながら、しかしその絶頂のときでさえどこかしら、あまりに哀し気なのはなぜか。
彼ら魚たちの場合には、すぐあとに死を迎えることもあるわけだから、かも知れないが。
それほど必死でも懸命でもない人の場合にも、やっぱりふと哀し気だったりするではないか。
だからぼくには、草食系男子の気もちもワカる気がする。
いっぽうで肉食系女子については、じつはもとより女性は肉食系だと思っていたので…よくワカらない。
閑話休題。
”あくび”であった。
思わず涙がこぼれたりするほど不覚にはチガイないのだけれども、陶酔境とか恍惚感にはいまいち遠い気がする。
”あくび”という不随意的におこる呼吸運動は、口を大きく開けて緩やかに長い吸息に、つづいて短い呼息をともなうもの。
(あ~~~~~ぁ、はぁ)と、音にしてみればそんなふうに、緩み弛んだところがあって、ちょっと阿保っぽいところが難だ。
”あくび”は「欠伸」と書くが、辞書をよく見ると、「欠」一字で”あくび”だとある。
(漢字の旁〔つくり〕の名称も「欠」は「あくび」だ)
どこか「欠けて」いるわけである。
また、「欠伸」には「けんしん」という読みもあって、広辞苑によれば「あくびと背のび」だという。
そうだ、”あくび”にさらに”背伸び”もくわわらなけれれば、ホンモノにはならないのであった。
それがどういう状態かを、みずからあれこれ試してみたら…。
(そうか)、オオカミの遠吼えに、ぼくは辿りついてしまったのダ。
背を伸ばして、喉を反らせると、自然、口は細く尖って空を仰ぎ。
(わぉ~~~~~ん)と。
『狼王ロボ』絵本の表紙や、アラスカの生きものたちのドキュメント映像なんかにもあったとおりの、あの姿。
しかも、この場面の背景にはかならず、満月がなければならない。
なおかつ、満月のちょうど中心あたりにオオカミの、気もちよく伸びた喉の毛がソヨいでいなければならないのダ。
そういえば前に、動物園の人から聞いた覚えがある。
オオカミの遠吠えは、思いがけなくやってくる、仲間を呼ぶとか、そういうこともあるのだろうけれども、それよりなにかに衝き動かされて、自身でも思いがけないときに遠吠えをしたくなる、そんなことの方が遥かに多いような気がする…と。
ぼくは、ハイイロオオカミ「ロボ」になりきって、遠吼えを真似てみる。
まさか、大声に遠く吼えるわけにもいかなかったけれど、それでも声に出してみるとたしかな実感があった。
こんどの満月には、ぜひ、どこぞ人気のない、崖から突き出した一枚岩の上で、こころおきなく遠吼えてみたい。