-No.0752-
★2015年10月13日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 1678日
高倉健没から → 337日
★ オリンピック東京まで → 1746日
◆ふるさとの海よ…かえれ!
8月24日、月曜日。
曇り空に、風が強い。きょうも台風余波の影響下にあるようだ。
きのうで巡礼帯同にくぎりをつけたアネさんを、釜石駅まで送って別れる。
彼女は遠野に立ち寄って、夕方、東京に戻る予定という。
被災地沿岸部、たとえば釜石や宮古あたりからだと、新幹線の駅(新花巻や盛岡)までかかる時間と、新幹線で東京までの所要時間とがほぼ同じくらいになる。
ぼくらは釜石から反転して、さらに北上する。
山田の町、重茂半島、宮古の護岸と盛土…。
田老では、”万里の長城”の補強改修工事に余念なく。
つづく断崖上地帯は、三陸鉄道北リアス線のレールも国道45号も海からは離れるため、その長閑さにふと、なにごともなかったかのような錯覚を、毎度のこと覚えさせられる。
そうして、断崖の狭間にぽっかりと開け、手ひどく津波にやられた港々が、いま復旧のさなかにあった。
岩泉町小本から、田野畑村へ。
住宅がこぞって山の手に引っ越した島越駅前や港の周辺は、風の強い天候のせいもあろう、ほとんど人影を見かけなかった。
震災津波被害の語り部を兼ねる”さっぱ舟”観光の拠点、羅賀の入江をすぎ、もうひとつ小さな鼻を越すと、ホッとひと息つく感じでたたずむ明戸の浜。
あの《11.3.11》以来なんども通り、通りすがりの一時、車をとめて休んだ浜にはいま、大規模な防潮堤工事の槌音が高い。
築堤の高さは10メートルを越えるだろう。
その奥まった集落の一郭に、佐々木公哉さんのお宅を探す。
ナビに導かれ、漁師さんの住まいらしく思われる納屋の大きな一軒に声をかけると、そこが佐々木さんの家だった。
佐々木さんと識りあったのはfacebook、そこでの友だち関係ということになる。
「3月11日にみさご丸を失った それでも漁師しか僕にはできない」という、彼の痛切な心からの叫びは大きな反響を呼び、国や県を相手に歯に衣きせぬ直言批判や意見や民意を代弁、さらに「視野を広くするにはもっと他所の事情も知らなければ」と奔走する実行力の持ち主だ。
彼は仕事のあいまを縫って、沿岸では原発禍の福島までも遠征し、各地の集会や講演会にも出張っている。
なまなかなことでは、できるこっちゃない
ブログでも活躍し、「きんちゃん」の愛称で親しまれる佐々木公哉さんの発信にはファンが多く、アプローチ数ではおそらくボクの10倍以上もあるのではないか。
行動的な漁師さんらしく、門口も大きい「きんちゃん」の家。
《11.3.11》の津波に曝され、半壊したがなんとか流されずにすんだ。
このときの大津波で、「きんちゃん」と家族、愛犬のタロウはかろうじて難をのがれたが、親戚や親しい人々の多くを失った。
けれども…哀しみよりもいち早く、立ちあがる気力がこの人にはあった。
すぐに大工さんに電話をいれ、家の修復を頼んでいる。「こうした災害の後には、大工仕事の注文が殺到するのはわかっていたから」という。しかし、それがなかなかできないのがフツウだ。
「きんちゃん」にも、ワークショップの巣箱をひとつプレゼント。
自然の生命力にゲンキをもらう、心づもりには笑顔をもらったけれど。
愛犬のタロウくんと戯れていると…。
「海のようすが、あのときからこっち、オカシイままなんだ」
すぐに表情をくもらせた。
「昭和(8年)の三陸大津波のときは、海がもとに戻るのに15年かかったとお爺さんから聞かされていた、これからどうなっていくのか皆目見当もつかないのが、いちばんの不安だな」
「きんちゃん」は、だいじな漁の道具、傷んだカゴ網を広げて溜息をもらす。
「この、評判のいい漁場だった海の底が、あれからもう滅茶滅茶でさ、網が傷つくくらいならまだマシで、瓦礫に獲られちまう損失も少なくないんダ」
彼はいま、本業の漁師としてはほんの試験操業程度で、そのぶんを昆布やワカメの販売に託して踏ん張っている。
その日、昼頃までのおよそ2時間を話しこんでから、ぼくたちも、ワークショップがすんで軽くなった車に昆布を積んで、買って帰った。
「きんちゃん」の人懐こい笑顔つき販売も、なかなかすぐれものだった。
帰り際 ぼくは、ついに口に出しかねていた本音をもらした。
「一日も早く、この海がもとに戻りますように、そうしたらぜひ、きんちゃんの獲った魚を食べさせてほしい」
「獲れそうな海になったら連絡するから…」
「きんちゃん」の約束をもらって、タロウにもまた逢う日までサヨナラ、ぼくたちは田野畑村の海をあとにした。