どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《11.3.11》福島巡礼2015夏⑨南相馬市小高/   「浮船の里」は繭から糸を紡ぎはじめたばかり…

-No.0688-
★2015年08月10日(月曜日)
★《3.11》フクシマから → 1614日
    (高倉健没から →  273日
★オリンピック東京まで → 1810日

*きのう長崎原爆の日。けっして気のせいではなく、広島の式典にくらべると、親身な真情にあふれ、平和を希求する決意に充ちていた。市長の演説も、長崎の方がはるかに語られる言葉に力があった。安倍首相も、あきらかに圧されていた。そういえば、ここへきて安倍さん、「戦後70年談話」の詰めに入るあたりから、表情に生気がなくなってきた。目線が、集中力を欠いて泳ぐ場面も目だつ。要注意水域に近づいてきたようだ*




◆「浮船の里」の〝三婆トリオ〟

 7月16日、雨の小高。
 雨粒のすじが大きくはっきり見えるなか、その間を透かして、国道6号の近くに小さな作業場を訪ねた。

 小高地区の農村部では、かつて養蚕が盛んだった…という話は、小高に実家のある方からも聞いていた。
 どこの農家でも、2階や中2階が「蚕棚になっていました」という。
 
 いまは原発事故の避難区域になっている、この小高区に、復興の足がかりのひとつを築こうと、「小高天織り」プロジェクトがスタートした。
 新聞に記事が載ったのは6月も末のことだった。
 来春に予定される避難指示解除を見すえ、「やりたい人が、やりたい時に、やりたいだけ」をモットーにゆるやかに、蚕を飼って糸を紡ぎ、手織りの製品を商品化して行こう、というのだ。

 10人ほどのメンバーで始まった活動は、まず作業所の奥に蚕棚を置いて「おカイコさん」の飼育からスタート、といっても、養蚕も手織りも経験者なしだから「少しづつ、ゆるやかに」しか、やりようがなかったという。ともあれ、できる人が交代で桑の葉を刈り、おっかなびっくりで養蚕に取り組んだ。

 ぼくらが訪ねた、その日。
 「浮船の里」では、代表の久米さんが、はじめて採れたばかりの繭の真綿から、糸紡ぎの手を動かしているところだった。
 「まだ慣れないもんで、訓練の日々です」と笑う。
 それでも、最初の製品のコースターは「できているんです…けど」、みんな小高駅前の「ショップの方にいっちゃってるもんですから(見せることができない)…」と戸惑うところが、スタートしたばかりの初々しさだった。

 久米さんは「原発事故に正面から向きあって身体をこわして」、これじゃいけないと思いなおして、「原発がくる前の暮らしに戻りたかった」という。
 いまは「ずいぶん強くなれたと思いますね」とも。

 久米さんがくれた小型の名刺、右肩に拡大鏡が欲しいくらいの小ささで〝2B〟とあった。
 NPO法人の設立者で世話役みたいなかたちの、3人が「三婆」を名乗ることにして、「わたしが2Bでしょ」、そこへ奥からもうひとり〝3B〟の方が登場、廣畑さんは農園の経営者。
 生憎きょうは留守の〝1B〟さんは、「駅前旅館の女将で、いま旅館は改築中」とのことだった。

 こういう人間存在のあり方、〈たたずまい〉というやつに、じつはボク、すこぶるよわくて。
 親交をさらに先へと進めるためには、もう一度、あらためて出直す必要があった。

 雨の国道6号に戻って…。
原発は、オリンピックまではまぁ、なんとか慎重にいくんじゃないかと思うんですよ、無理なことはできないでしょうから、怖いのはその後ですよね…」
 ぼくは久米さんのコトバを反芻していた。
 彼女の気もちにあるものは、きっと、このあたりの多くの人たちに共有されるものだろう気がした。

 そのことについて、ボクがどう思ったか…といえば、(東電にそんな神経の細かさがあればまだマシなんだけれども)であった。