どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《11.3.11》福島巡礼2015夏②”Jビレッジ”の不運/”スポーツ天国”のはずが”野戦病院”のいま

-No.0676-
★2015年07月29日(水曜日)
★《3.11》フクシマから → 1602日
    (高倉健没から →  261日
★オリンピック東京まで → 1822日




◆日本初のサッカー総合支援施設

 7月15日(水)。
 波立海岸をあとに、国道6号を北上する。
 広野町に入った辺りから、まわりの風景が精彩を欠いて見えるのは、暑さのせいばかりではなさそう…だった。
 車の通行はあたりまえにあり、人の姿も少なくはないのだが、あきらかに工事関係者と知れる方々ばかりが目だつ、つまりいずれは去ってゆく人たち。
 住民と思しき人影は、ぽつりぽつりと散見されるにすぎない。

 やがて道の両側に、見覚えのある食堂やコンビニが現れて…。
 ぼくは、車を海側の地方道へと右折させる。

 このまま行けば、まもなく広野町楢葉町の境、「楢葉工業団地前」の信号。
 そこにはかつて検問所があり、用のない(?)車両は追い返された。
 (ほんとに…とりつくシマもなく、ケンモホロロであったなぁ、なぜにあれほどまで、人を邪魔者あつかいにするのか…上からの指示か…忠誠心か…)

 ぼくは、これまでに2度、そこまで来ていた。
 「通行許可証」をもたないために追い返され、Uターンして戻らされた。
 かつてジャーナリズム畑にいた頃なら、ほかにいくらでも手だては考えられたけれど、いまはふつうの一般市民にすぎない、その分際をこころえて人あしらいの在り方を体験させてもらってきたのだが、もういいかげんにしておきたくなっていた。
 (ボクはどうも、本人が自覚しているより以上に、人に警戒感や猜疑心を抱かせるらしい…)

 裏からまわった”Jビレッジ”は、かなり広い敷地をもつエリアであった。
 どうやら、隣接する広野火力発電所から、その所有地を分けてもらったものと察せられる。

 駐車場には、どこぞの大工場のそれのごとく、各地のナンバーとり揃え、車種もさまざまな車両群がいっぱい。
 これらほとんどすべてが、原発事故の処理と後始末に関わっていることに、あらためて驚かされる。
 未曽有の人為大事故、失態の数々の、後始末に追われ続ける前線本部付属施設のようなものだ。
 もちろん東電の出先機関もここに置かれ、調査・視察・見学に訪れる人も後を絶たないように見うけられる。

 いまは、とくに出入りを規制されることもないようなので、心ある人は、いとど訪ねてみるといい。
 ”フクシマ”の真実の一端が窺える。

 本館建物の入り口に、横文字表記があった。
 ここは1997年、わが国に初めてお目見えした、JFA(日本サッカー協会)のナショナルトレーニングセンター”Jビレッジ”。
 全11面の天然芝ピッチも備えた素晴らしい諸施設で、なにごともなければ、いまもサッカー・ファンの熱い声援を浴びつづけていたところだろう、が。

 あの原発事故から4日後、2013年3月15日からはスポーツ施設としては全面閉館。
 原発事故対応の拠点とされて、現在に至っている。

 ぼくたちは、本館建物をひとまわり観て、立ち退いた。
 内部の人の忙しげな動線、あわただしい出入りの様子は、やはり一般市民の居所ではない。
 なかにカフェテリアのようなものもあったが、とてもティー・タイムの気分ではなかった。

 駐車場から国道6号に出ると、そこが検問所のあった信号だった。
 かつては、ここから無用の車両はUターンさせられて戻るしかなったのである。
 Jビレッジの方へ右折など、思いもよらない、ぴりぴりしたムードだったことを想いだす。

 検問はなかったが、警備員の配置はつづけられていた。
 まだ、ナニがあるかもしれないコトに備えている、のであった。

 ぼくは、助手席のかみさんにスタートの合図をする。
 助手席には、三脚に据えたカメラがセットされてあり、これで通行制限解除された国道6号のいま現在を、動画におさめようという試み。

 じつはこれ、昨年春に”放射線像”カメラマン氏に同行させてもらった折に、教わった手法である。
 (うまく撮れているかどうか…まだ確かめて見る暇がないのだけれど…いずれ結果はお知らせするし、できれば動画投稿にもトライしてみるつもりだ)