-No.0590-
★2015年05月04日(月曜日、みどりの日)
★《3.11》フクシマから → 1516日
(高倉健没から → 175日
★オリンピック東京まで → 1908日
◆そこには、ただ風が鳴るばかり
旧海軍司令部壕のある豊見城から、さらに南下、糸満市に入る。
日本復帰まもない沖縄を、船旅はるばる初めて訪れた1972(昭和47)年のとき、戦跡めぐりの後、気分転換に立ち寄った糸満の漁村、赤銅の鞣し色に灼けた男たちの肌に、こころ癒されたことを想いだす。
きのうの記事でふれた「島守」、戦時の島田叡沖縄県知事は、県組織の解散を命じた6月9日以降、消息が知れず、遺骨も見つかってはいないが…。
きっと、守備軍の後退に従って人々と、ともに南へ、南へ。
本島南部、摩文仁の丘に、追い詰められた守備軍司令官、牛島中将が自決して、日本軍の組織的な戦闘が終えた6月23日あたりに、やはり最期のときを迎えたことだろう。
南端の喜屋武〔きやん〕岬。
正確には、さらに東寄りに突き出す荒崎が南端になるのだが。
高さ50メートルもの断崖がつづくこのあたり、摩文仁にかけての大度海岸に、どれほど多くの人々が逃げ場を失い、身を投げたことか。
泥岩と石灰岩に由来するという岩々が、波に削られごつごつと、痛々しくむき出しになっているのが、たまらなく辛い。
空も海も、穏やかに、初夏を思わせるオキナワ・ブルーに広がり。
魂鎮めの、平和の塔は黙然として。
荒れ地に丈高く繁ったアダンが、固い表情の実をつけたいた…。
……………
戦後70年。
文明がめまぐるしい発展を遂げた、この現代社会。
けれども…この70年、懸命に生きてきた庶民にとって、けっして短いものではなかった。
「たかが」でも「されど」でもない、70年だった。
けれども。
すぎゆく世、うつりかわる世には、伝え方も変わらざるをえないだろう。
喜屋武岬も、”バンザイ岬”のひとつ。
この”バンザイ”の意味が、どこまで間違いなく理解されるものか、不安かぎりない、いまの時勢だけれど。
すまないが、その意味をかみくだいて説明する気は、ボクにない。
その喜屋武岬の、すぐ近くにまで、逞しい宅地建設の波が押し寄せてきていた…。