-No.0588-
★2015年05月02日(土曜日)
★《3.11》フクシマから → 1514日
(高倉健没から → 173日
★オリンピック東京まで → 1910日
◆”世界一危険な基地”はそこらじゅうに…
ホテルは、残波岬に近い日航アリビラ。
沖縄本島中部、西側に突き出すこの岬は、沖縄本島上陸作戦の目標にされたところ。
1945(昭和45)年3月26日。
アメリカ軍の上陸部隊は、岬の付け根、読谷〔よみたん〕・北谷〔ちゃたん〕の西海岸に(それに先だって那覇の西約30キロ、慶良間諸島への上陸があり)やってきた。
…しかし、それを察知した日本軍は”血戦”に備えて南部に集結したから、上陸は粛々と行われ、地上戦の火ぶたが切って落とされるのは、その後のことになるわけだが。
ともあれ、アメリカ軍は手を分けて北部にも探索おこたりなくして、主力部隊が南進を開始。
その先に宜野湾〔ぎのわん〕があり、嘉数高台(軍の呼称は嘉数高地)の日本軍陣地があって激戦になった…。
いまは波静かな人気のビーチ、天気も気もちよく晴れた。
残波岬から北谷にかけての素晴らしい眺望がひらけるホテルには、ウェディング・プランの夢を呼ぶ教会が目をひき。
駐車場には、修学旅行の団体を運ぶ大型バスの姿もあって、行楽ムードいっぱいだったけれども…。
ぼくらは、きのう初日、やむなく予定変更のマイナスをカバーするため、朝食もとらずにレンタカーを走らせた。
(朝食券を夕食などの他用途にも使える、このホテルのサービスは気が利いていた)
那覇市内のモノレールのほかには鉄道のない、道路交通いっぽんの沖縄では、交通渋滞が悩みの種…と聞かされていたからだが、慣れない旅行者ドライバーの車が幹線道路を縫い、目的地に近づく頃には、みごとに渋滞の車列に捕まってしまっていた。
目指したのは、きのう下見しかできなかった嘉数高台公園の展望台。
”世界一危険”とされる普天間飛行場の現実を、あらためて視察する。
きのうは薄暮、小ぬか雨、という状況でよく分からなかったのだが、急な石段はいわば”男坂”、きょうあらためて見れば、脇からゆるやかなスロープの”女坂”がめぐっており。
これから梅雨どきの気配を察したものか、カタツムリがいっぱい道に這い出していた。
嘉数高地の激戦では、日本軍の将兵に防衛隊も加えた約2000名が堅固な要塞にこもって防戦に努め、攻防16日間におよんだが、ついに敗れ、さらに南部へと後退を余儀なくされたという。
台地の上にひとつ、トーチカが保存されてあった。
閉所恐怖症ぎみのボクには、このなかにジッと籠ることじたいが耐え難い恐怖…きっとあの戦時にも、多くの発狂者が出たに相違ない。
世界平和を願って地球儀をイメージしたそうな、まるい展望台のありようが、見ようによっては、それ自体がトーチカのようでもあった。
まだ朝早い時刻というのに、展望台には先客があった。
筒の長い望遠レンズを装着したカメラを首から左右にふりわけて、灼けた肌色の見るからに”歴戦”ふう。
基地反対派の記録者か、あるいは戦闘機のカメラマニアかは、わからない。
「まだ、はじまりませんか」と、ボク。
「まだ…のようですね」と、カメラ氏。
あらためてグルッと展望する、普天間基地の飛行場エプロンには、オスプレイがきのうのままの位置にいた。
仔細に観ると、この基地の立地はなるほど厄介である。
とくに、この嘉数高台下南から、西にかけての市街地は、びっしりビルと人家の屋並。いつも爆音の脅威のなか。
(しかし……)と、ぼくは思う。
ここが”世界一危険”なら、日本にあるものすべて”世界でもケタ外れて危険”な基地ばかりではないか。
海山のせめぎあう急峻な火山・地震列島の、平地きわめて稀少な狭くるしい国土には、大規模な飛行場の立地できる余地なんかない、のではないか…。
しばらく待ったが、オスプレイも、他の軍用機も動く気配なく、滑走路にも周辺のどこにも人影さえないのを見とどけて、ぼくらはその場を去った。
公園の日影では、高齢の男3人が囲碁に熱中。
傍らに、紅いハイビスカスが咲いていた。
入口に近い樹の幹には、「辺野古に行こう!」の掲示板がかかっていた。毎週火曜、市役所前からバスが出るという。
こうした市民ぐるみ「オールおきなわ」の広報を、その後ぼくらは、各地の辻々で見かけることになった。
「これまでの沖縄とはちがう」
「これからの沖縄はちがう」
*写真=上段、(上)は”世界一危険な基地”とされる米軍普天間基地飛行場、(下左)は嘉数高台から西側海岸方面を望む、(下右)は嘉数高地にのこされたトーチカ*
*写真=下段、(上左)は「辺野古へ行こう!」の掲示板、(下右)は日影で囲碁に興じる男たち*