-No.0586-
★2015年04月30日(木曜日)
★《3.11》フクシマから → 1512日
(高倉健没から → 171日
★オリンピック東京まで → 1912日
◆《戦後70》沖縄巡礼、出発の4月13日
沖縄に向かう羽田空港で、ボク、手荷物検査にひっかかてしまって、キョトン。
係官に指摘されて、はじめて、リュックサックのポケットにナイフとサバイバル・ギア、計2点を入れたままだったことに気がついた。
衣類などはそのつど詰め替えても、いつも、この2品だけはそのままに旅をしてきていた、陸上にあるかぎり、なんの不都合もなく。
うかつ…といえばそれまでのことだったけれど、さほどまでに空旅から遠ざかっていたことに感慨ふかいものがあった…。
ぼくのボウゼンとした目が、係官には”不審の眼差し”と映ったらしく、冷たく鋭い一瞥をなげられてしまった。
とどのつまり、その”危険物”2点を空港のロッカーに預けて出立、帰途、保管の追加料金を払って受け取るというドジを踏むことになったのだった。
飛行機が、エアバスとかいうらしいジャンボだった。
機内客室に通路が2本もあって、窓側左右に2席、通路間に3席の計1列5席。
ぼくにとって、これはもう、旅客機の範囲外、貨物機か軍用輸送機か、のレベルである。
ぼくの許容範囲の旅客機というのは、通路が1本の両側に2席づつくらいまで。
たまたま通路間の席にあたったボクらには、窓外の景色の楽しみもない。
にもかかわらず、他の乗客衆のなかには、せっかくの窓際席をモノにしながらブラインドを下ろしてずっと眠りこけたまま…なんて人も珍しくなかったりするのダ。
ジャンボ機内は、空気もよろしくない。
かみさんと二人、やむなく乗った札幌-東京便の機内で、吐き気をもよおすほど気分がわるくなったのは…あれは何年前のことだったろう。
ぼくは、飛行機ぎらい、だけれど、プロペラ機だけは別、愛してやまない。
国産YS-11で日高山脈を越え、気流に翻弄されながら帯広まで飛んだときの興奮をいまも忘れない。
そのYS-11の生きのこりの1機が、昨年末、あわやスクラップにされてしまうかと話題になったときには、夢に見るほどシンパイした。
さいわい、民間航空機販売会社が買いとってくれて、ふたたび空に復活させたいとのことなので、愉しみにしている。
最近では、ホンダ・ジェット。
最大7人乗りで、格段の燃費性能にすぐれ、そのエンジンを主翼の上にもってくるという独自性をもって。
アメリカに生産拠点を置いて半世紀、年内にも納入を始められる見とおしとなった機体が、日本にデモンストレーション飛来…というニュースは、ひさしぶりに気もちがヨカッタ。
ボク、ホンダのバイクは好きで、しばらく乗っていたこともある。
しかし、どうしてだろう4輪になると、ホンダ車には縁がない。
これは感覚なのだけれど、ホンダ車を運転するとオートバイに跨った気がする…のだ。
閑話休題。
沖縄便のジャンボは、なんとか無事(ちょうどそんな感じだった)、機体が折れることもなしに那覇空港に。
ドゴンとタイヤを歪ませて(まさしくそんな感じに…)滑走路を懸命にホールド。
空港ターミナルに解放(あるいは開放)されたときには、思わず声をあげそうになってしまった。
◆やぁ、すっかり立派になってしまってぇ!
人々の姿、はずむ流れ、物流などもふくめたふんいき、すべてが明るく、それでいて、ちっともハシャいではいない、ふつうのことになっていたから。
しっかりと、地に足の着いた自信、「うちなんちゅ」の自覚が看てとれたから。
つまり、ぜ~んぜん気分がヨカッタから。
じつは…。
沖縄が”本土”に復帰した1972(昭和47年)5月15日。
鹿児島県・指宿枕崎線枕崎駅から、北海道・広尾線広尾駅まで、ボクは(当時の)国鉄「片道最長切符」の旅にたった。
まぁ、カッコをつけたことになるワケだけれども、カタチばかりの沖縄本土復帰に「背をむける」気分にウソはなかった。
ぼくにとってオキナワ…は、そういう存在でありつづけた。
その沖縄に、行くチャンスが訪れたのは、その後まもなく。
あれはたしか、いまも東京・大阪からの航路がある琉球海運の船ではなかったか。
2日ほどをかけて渡ったさき、那覇の港は、旅客ターミナルなどというムードとは程遠い、”波止場の倉庫”イメージ。
空港の感じも”貧しげな”、似たようなものだった。
そのときの印象を一気に、グワァラングワァラン…とひっくり返された。
ちがう…これまでのオキナワでは、もう、なかった…と。
*写真、(中)は日高山脈を眼下に飛ぶYS-11、(下)はボクの「片道最長切符」・左下に昭和47年5月2日発行・右上に5月15日から有効の刻印がある*