-No.0566-
★2015年04月10日(金曜日)
★《3.11》フクシマから → 1492日
(高倉健没から → 151日
★オリンピック東京まで → 1932日
◆”遊べる”空気がウレシイ
六本木の東京ミッドタウン。
ここが防衛庁の跡地だったなんて、もうだぁれも思ってもみない、みたいだ。
ここにはサントリー美術館があり、FUJIFILM SQUAREがあり、近くには国立新美術館も、六本木ヒルズには森美術館もあるけれど。
そんななかに、ちょっと毛色のちがったセンスでガーデン内に異彩を放つものがある。
「21_21DESIGN SIGHT」
いわばデザイン広場といった趣きで、年2回の企画展を中心に、デザイン・シーンに携わったり、関心を抱いたりしている人たちのコミュニケーションをはかろう、楽しみながらやっていこう…というところだ。
だから、たとえば今度の「単位展」にしても、博物館みたいなむずかしい表情のところとは、まるでチガウ。
美術館みたいに、なにやら蘊蓄をかたむける風情の、めんどくさいような気分もない。
ぼくのようにデザインに関心をもち、しかも人生まったくデザインとは縁遠いような男にも、じつに興味深く眺め、見やることができる、そう”遊べる”感覚がうれしいのだった。
そんなところって、じつはまだまだ少ないですから…。
「はかる」ことを識って、発想の転換も「はかろう」という「単位展」。
”木もの作り”をするぼくにとって、「はかる」のは常日頃のことだし、これはなにもボクにかぎらず誰にしてもだ、実際の寸法や量目ばかりじゃない、とかく人の世渡りには「はかる」ことがかかせない。
「計り」「測り」「量る」から、「図り」「謀り」「諮る」ことまでが含まれるし、ざっと「見つもる」ことも、あれこれ「推しはかる」こともある。
そうしてじつは、この「推しはかる」場面が、モノサシや計量カップで正確に「はかる」ことなんかより、ずっと多いし、実用的でもある。
というわけで、ぼくは「はかる」ことが好きであり、にもかかわらず「はかり違える」ことも多いときているのは、どうしたことだろう。
それは、さておいて…。
カルチャーセンターで「木工」の指導をするぼくは、生徒さんたちに「はかる」ことと「適当に」することのたいせつさを教えている。
それは、こまめに「はかる」ことをしないと寸法の感覚が身につかないからで、寸法が身につけば「適当に」するコツがつかめる、と同時に「はかる」たいせつさも身につくという寸法だからだ。
いちど寸法をとったら、かならず、もういちど「はかり」直す、くせをつける。
そのうえで、さいごは自身の手指の感覚にゆだねる、つまり「適当に」する。
その場合の〈適当〉は、もちろん「ごまかす」方のではなく、「ほどよく」する方の。
合わせ目は、指の腹で確かめる。広げた手の、親指から小指の幅がおよそ15センチだから、2つ計れば30センチ…といったぐあいに。
身体定規ってやつ、これを使えるようになると「適当に」デキます。
〈適当〉といえば…。
ボクは「量と重さ」のコーナーで、ふと、亡くなった親父さんのことを想い出した。
日本橋、砂糖問屋の一族に生まれた父は、戦後没落の憂き目をあじわいながら、真面目にサラリーマンを働いた人だった。
その人が、冗談に晩年「重さを量るんだったら自信があるね」といった、さんざ砂糖を量らされたからね、と。
そんな、器用なところなんか、これっぽちも無い人がです。
(信じられない)
気がして「じゃ量って見せてよ」
意地悪をしてぼくは、砂糖を量り入れた袋を父の手に持たせた。
「うん……?……500(g)ってとこか」
(へぇ、信じられない)けれど、あたっていたのだ。
なにかにつけて、人の身につくことが少なくなったいまどき、身をもって「はかる」感覚も、「適当に」許容範囲の幅をもたせることも、苦手な人が多くなっている気がする。
……そんな雰囲気もあじわいながら、楽しんだ「単位展」でした。