-No.0496-
★2015年01月30日(金曜日)
★《3.11》フクシマから → 1422日
(高倉健没から → 81日)
★オリンピック東京まで → 2002日
*後藤健二さんの〈その後〉が混迷を深めている。さまざまな情報、まつわる付属情報や余談、分析・観測・憶測が無差別にとびかって。マスコミの報道、さまざまなメディアを通じての個々人のメッセージもふくめて、動けば動くほど“アリ地獄”が大きく深くなっていく。(残念ながら、このボクもふくめてのことになってしまうが…)やかましい、と思う。こういうときに、深い関心を抱きながら、懸命に耐え、ジッと黙して見守ることはできないものか…*
◆この正月の「年賀状」が、ようやく片付いた
「お年玉付き」年賀はがき、当選番号の発表があって、ひととおりの行事がすんで。
書き損じと未使用のハガキを、発展途上国の児童教育を支援するボランティア団体に寄付して、一件落着。
郵便局からの「お年玉」に期待があるわけじゃないけど、ちゃんと番号の確認はする、 習慣になって長年月がすぎて、今年も末等の切手シートが数本…。
ぼく、いまは、住所録を兼ねた郵便はがき作成ソフトを使って、やりとりの管理をしています。
各人のメモ欄に、「送る」と「受けとる」に「〇」か「×」、それに敬弔で中断の「-」…これが年とともにふえつつあって。
あと賀詞の交換をしない「■」。
この扱いに、ケッコウ気疲れがあるんですね。
はじめっから「■」ならいいんですが、何年か交換をつづけて「もう、いいかな」、「やめたほうが、おたがいのためかな」、「むこうでも、おなじこと思ってないかな」って、ちょっと悩む。
そんな相手が、毎年、何人かあります。
ためしに「送る」を「×」にしてみて、そのまま「■」になることもあれば、にもかかわらず「受けとる」方が「〇」になって、お返しに「送る」を「〇」になんてこともある。
とうぜん、その逆(相手の思惑)もあるわけですよね。ちょっと悩ましい。
ずっと以前に、知人からオモシロイ提案を受けたことがあります。
(前述のような悩ましいことがあるので、それは避けたい…)ついては「年賀状のやりとり、やめにさせてもらえませんか…」と。
(それも、いいかな)と思って「×」にしたら、それっきり、ほかの連絡もすべてなくなって、やがて、その人の名は住所録からも消えていきました。
じつは、彼のねらいはそこにあった、のならいいんですが…。
人生って波が激しいもんだし、人間なんて気分屋なもんだし…。
ぼく、かつては300枚を超える年賀状をやりとりしてました。
年賀状を廃止すべき虚礼とは思っていません。けれども、さすがに荷が重すぎて、これまでに2度ほど、減量の大ナタを振るったことがありましてネ。
いまもやりとりしているのは、その歴史をのりきって続いている方々、というわけで、煮詰まっているんです、悩ましさはますばかりですが…。
また、今年の暮れも、幾人かについて「〇」か「×」かを迷うことになるのでしょう。
ハイ。もちろん。
ぼくは、手書きの便りしたためることは、気もちを伝えるのに、とてもたいせつなことだと思っています。
メールに(あれこれ工夫してみたって結局)行間はありませんから。
余白もありませんから。
相手への想いは、そういったものも含めた紙の上に、あふれますから。
ぼくは、けっして返事をくれない相手(あなたデス)から、葉書一枚でも、もらえるようにするにはどうしたらいいか…のくふうを、アレコレ考える日々です、これからも…。