-No.0484-
★2015年01月18日(日曜日)
★《3.11》フクシマから → 1410日
(高倉健没から → 69日)
★オリンピック東京まで → 2014日
お待っとうさんでした、本日から再開させていただきます。
じつは、ぼくの(デスクトップ)パソコンの修理はディスクドライブの交換のみで済み、思いのほか早く13日には帰宅、再設置、リスタートまでできておりましたが。
せっかく頂戴した「お休み」ですから、これはもぅほんとに、ありがたいこって…と思っていたら、とんでもない、そうは問屋が卸してくれませんで。
年明け早々に亡くなった叔父さんの、14日が通夜で、15日告別式。
なんやかや…あって、翌日いっぱいは気の鬱〔ふさ〕いだままに寝転んですごして。
昨日は昨日で、阪神淡路大震災から20年。
友人が被災したこと、でもボク自身はほとんどなにもできなかったこと、あのときが日本の“ボランティア元年”であったことなど、考えて一日がすぎ。
パソコン故障中のメール対応などもあったりで。
……ちゃぁんとネ、再開までの帳尻は間に合うようになっておりました。
その間に、フランスで銃撃テロ勃発。
◆「シャルリエブド」あの諷刺画は、やっぱり…イケナイと
見たとたんに、ズキンと痛かった。
イスラム教徒でもない、仏教世界の男にもです。
諷刺って、「遠まわしに」とか「それとなく」とかって、そういう少しは遠慮がちな態度のものだと思ってましたけど。
フランスとかのヨーロッパ圏では、だいぶ事情がちがうんでしょうかね。
すぐに、それこそ「打てば響く」ように、何万人かが参加して連帯を表明するデモがあって。
「わたしはシャルリ」だ「表現の自由」だ、って。
それはいいけど、態度が、こっちもかなり鼻息があらくて、ずいぶん暴力的だった。
ぼくは、あの絵から「侮蔑」を感じました、「差蔑」といってもいい。
「差別」にくらべて、段違いに手酷い「差蔑」だと。
おたがいに素手での喧嘩のはずの、相手の手にはこっそり凶器が隠し握られていた…みたいな。
「抜き身」の「差別」。
あと味、よくなかったです。
それより、なにより、だいいちに。
初めっから見下してかかってるんですから、明らかに「上から目線」で。
「おくれてやがる」とか「劣った奴ら」とかって、きめつけてる。
そんなに、じぶんたちは、自分たちだけは大したもん…なんでしょうかね。
イスラムの人たちには理不尽な、ふつうの人たちにも耐えがたいことだったでしょう。
そのへんの思いやりに、まったく欠けてました。
報復があった後の最新号でも、その表現態度をあらためる気振りも見せず、侮蔑・差蔑で発行部数をのばす諷刺紙の、諷刺画家は「われわれが目指すのは笑いだ」とかいってましたけど、その顔には苦笑いもなく、ひきつってましたね。
それがスベテ…じゃないでしょうか。
日本人も、(もちろんボクも含めてですけど)けっこう熱くなるところ、ありますから。
気をつけないと…イケナイ、アブナイ…気がしています。
年明け早々から、毛髪を燃やされたみたいな焦げ臭さ、きな臭さ。
寒くても、ふるえても、いい空気に入れかえたいですね。