-No.0459-
★2014年12月24日(水曜日)
★《3.11》フクシマから → 1385日
(高倉健没から → 44日)
★オリンピック東京まで → 2039日
◆奴阿呆…音声表現的には「だぁほっ」に近い
19日の金曜日、ことし〆のカルチャーセンター「木工教室」、講師の仕事にでかけ、帰宅してから“補聴器”が見あたらない。
どこに置いたか、覚えがない…けれども、家のなかのどこかにチガイない。
この日の「木工教室」には、体験希望者が2名あり、せっかくもってくれた興味を深めてもらおうと、おおいに気ばった。
それでなくても、ぼくの指導法は(生徒さんたちの評判によれば)熱のこもったものだったから、3時間の教室をおえるとグッタリだった。
……でも、まさか、わが耳につけた補聴器を紛失、そのことに気づきもしなかった…なんて、考えられない。
(どこか、ひょんなところから、きっと見つかる)と思って、そういうことがこれまでにもあったから、翌日1日をすごした、が、出て来ない。
もちろん、“補”聴器だから、必要なときに着ければいいのである。
しかし、音の情報はどこにもあるし、人と逢って話し始める前に「ちょっと待って」と断って装着するのも気が引けるし、いったん着けてしまうと外すのを忘れることもある、というわけで、つい着けっぱなしになることも多い。
耳に補聴器があることを忘れたりするというのは、それがまだ、身についてはいないからである。
そう思って自戒を繰り返すのだが…。
頭から被って着脱する衣類に、補聴器が引っ掛ってとれてしまうことも、よくある。
邪魔になる入浴時、補聴器を外し忘れたままシャワーを浴びてしまい、補聴器は小型のボタン電池で作動する精密機器、あわてて水気を拭きとったこともある。
必要のない寝るときでさえ、ベッドに入ってから気がついて外すことがある、くらいなのだ。
さっきは「失くすのは身についていないからだ」といったけれど、逆にいえば「気づかないほどピッタリと身についてしまっている」のでもあった。
必要なときに着け、着けると外すのを忘れ、要らなかったと…気がついたときに外す、そのとき身近に収納ケースがなければ、とりあえずの置き場所に置き忘れる。
それが、少なくともボクにとっての補聴器というものだ。
そういうわけで、いつ、どこで、着脱することになるかも知れない性質の補聴器は、行方不明と発見保護の、あぶなっかしい“綱渡り”の連続である。
そこに思いいたって、2日後に徹底的に捜索してみたけれど、ない、どこからもついに出て来ない。カルチャーセンターの教室にも、交通機関にも問い合わせてみたが、ついに行方知れず。
「失くした」
事実にボクは愕然、奈落の底へとオチコム。
売れ筋の限定された補聴気は、けっして安くはない品で、それをボクは、これで2つも失くしたことになる。
それよりなにより、耳から外れて落とした、そのとき気がつきもしなかったことが、ショックであった。
もとより、人後に落ちないオッチョコチョイ、粗忽者だとは承知しているが。
(歳をとったか…)という憮然たる気分が、おおきく土星の輪をかける。
やむをえない、また補聴器を買い替える…か。
そこで、ぼくは「待てよ」と胸の内に叫ぶ。
身につかない補聴器なら、やめにする、手もあるのではないか。
他人には聞こえている音声が、自分には聞こえないリスクはある…が。
聞こえないものは聞こえない、聞こえないものは聞かないでもよし…と、いっそ居直ってもよいのではあるまいか…。
ボクはいま揺ら揺ら悩みの波に揺られている。
(まだ70前じゃねぇか頼むぜオイ)