-No.0435-
★2014年11月30日(日曜日)
★《3.11》フクシマから → 1361日
(高倉健没から → 20日)
★オリンピック東京まで → 2063日
◆「マグロの焼津」からの帰途…
ふと思い立って久能山に寄った。
“いちご”のことが気にかかる。
久能山の海側の麓、傾斜地の一帯は有名な“石垣いちご”の産地である。
ぼくらの青春前期ころまで…であったか、「三保の松原と石垣いちご狩り」といえば、冬の観光バスツアーのなかでも抜群の人気コースであった。
戦中・戦後の窮乏生活のなかで、都市庶民も懸命に自給自足を模索した。
いまの“園芸”流行りとは、希求のあり方が根本的に違って、好きなものを育てるというより、先決は飢えを凌ぐ算段であった。
人々は、空地さえあれば“にわか百姓”を目指し、支柱を立ててナスやキュウリやトマトを育て、貧弱な畝を起こしてイモなどをつくった。
とくに果物は希少で贅沢なものだったから、食べたければ自作するしかなく、わが家でも桃や無花果〔いちじく〕の木を植え、ブドウ棚まで拵え、それこそ猫の額ほどのささやかな庭の、畑の一隅にはイチゴの苗を植えた。
家庭菜園の果物は栄養がいまいちのせいで、育ちの不十分なものが多く、味わいも甘みもすこぶるケチなものだった。
イチゴなんか、粒の大きさも美味さも、店頭を飾る宝石みたいな果実とくらべたら、孫か曾孫かというくらい貧弱だったけれども、よろこんで食べた。おまけに露地栽培のイチゴは、虫や鳥との奪い合いだったから、熟れるのを待つゆとりもなかったのだ。
そんな思い入れのイチゴが、永い歳月を経て、ぼくの注意を喚起することになったのは《3.11》。
大津波に洗われ尽くした宮城県亘理町のイチゴ農家が、北海道伊達市から支援の申し出を受け、移住生産にふみきってからだった。
北の大地に、その人々を訪ね、心ばかりの支援をつづけるうちに、イチゴという作物に興味がわき、品種や栽培法など、雑な知識もふえていった。
産地の評判を聞けば、買い求めて味と価格を確かめ、それまでさほどの歓心もなかったスウィーツとやらにも気もちが向いて、イチゴ入りのショートケーキを食べくらべるまでになっていた。
それが高じて、何十年ぶりかの「石垣いちご」詣でになった。
安倍川の橋を渡ると、交通頻繁な国道150号わきの斜面に、〈みっしり〉とハウスが建ち並んで壮観。
「石垣いちご」は健在であった。が、しかし、時期が年末まぢか。“いちご狩り”のシーズンは年明けからであり、時間が昼近いこともあって付近に人気はなく、直売所も開いていない。
いつのまにか、久能山東照宮の登拝口。
駐車場のおじさんが「歩いて登りますか」と笑って尋ねる。
「(歩いて)どのくらいですかネ」
「段数で千とちょっと、20分くらいですけど…」
おじさんの顔が相変わらず笑っている。
石段を見上げると高い、折りから雨模様でもあった。
「日本平の方にまわれば、ロープウェイで行けますよ」
(ゴメンなさい)そっちにさせてもらいます。
ロープウェイに揺られて渡った久能山、東照宮の急峻な構えにボクは、30年も前になるかも知れない行楽のときを想いだしていた。
なにしろ、辺りは〈石だらけ〉であった。
麓の「石垣いちご」の石はまだ小ぶりだったが。
外敵の侵入に備えたという、東照宮の社殿をめぐる石段は、大人の男の脚でも「よいしょ」と踏ん張らねばならないほどに巨きく、息が急く。
(もう、次に来ることはない…かも知れない、弱気が萌す)
社務所のあるところで、さっきの登拝口からの石段道と合流しており、下を覗くと登って来る人の傘が一つ二つと見えてはいたが…前のときにも(ヤ~メた、一抜けた)気分になった記憶がある。
東照宮に務める人たちは毎日、この石段を登り下りしているのだ、と聞いても(ははぁ)、他人ごとにすぎない。
そんな気もちで眺めるせいか、石段の擦り減り方も、あのときと変わってはいないようだった。
ここからは、眼下に見渡すイチゴハウスが一段と壮観。
むかし味わった「石垣いちご」の酸味が、ゴクンと喉に蘇ってきた。