どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

30年ぶりの久能山東照宮と「いちご狩り」/   想えば人生、ずいぶん遠く来たもんだ…

-No.0435-
★2014年11月30日日曜日
★《3.11》フクシマから → 1361日
    (高倉健没から →   20日)
★オリンピック東京まで → 2063日









◆「マグロの焼津」からの帰途…

 ふと思い立って久能山に寄った。
 “いちご”のことが気にかかる。

 久能山の海側の麓、傾斜地の一帯は有名な“石垣いちご”の産地である。
 ぼくらの青春前期ころまで…であったか、「三保の松原と石垣いちご狩り」といえば、冬の観光バスツアーのなかでも抜群の人気コースであった。

 戦中・戦後の窮乏生活のなかで、都市庶民も懸命に自給自足を模索した。
 いまの“園芸”流行りとは、希求のあり方が根本的に違って、好きなものを育てるというより、先決は飢えを凌ぐ算段であった。
 人々は、空地さえあれば“にわか百姓”を目指し、支柱を立ててナスやキュウリやトマトを育て、貧弱な畝を起こしてイモなどをつくった。
 
 とくに果物は希少で贅沢なものだったから、食べたければ自作するしかなく、わが家でも桃や無花果〔いちじく〕の木を植え、ブドウ棚まで拵え、それこそ猫の額ほどのささやかな庭の、畑の一隅にはイチゴの苗を植えた。
 
 家庭菜園の果物は栄養がいまいちのせいで、育ちの不十分なものが多く、味わいも甘みもすこぶるケチなものだった。
 イチゴなんか、粒の大きさも美味さも、店頭を飾る宝石みたいな果実とくらべたら、孫か曾孫かというくらい貧弱だったけれども、よろこんで食べた。おまけに露地栽培のイチゴは、虫や鳥との奪い合いだったから、熟れるのを待つゆとりもなかったのだ。

 そんな思い入れのイチゴが、永い歳月を経て、ぼくの注意を喚起することになったのは《3.11》。
 大津波に洗われ尽くした宮城県亘理町のイチゴ農家が、北海道伊達市から支援の申し出を受け、移住生産にふみきってからだった。
 北の大地に、その人々を訪ね、心ばかりの支援をつづけるうちに、イチゴという作物に興味がわき、品種や栽培法など、雑な知識もふえていった。

 産地の評判を聞けば、買い求めて味と価格を確かめ、それまでさほどの歓心もなかったスウィーツとやらにも気もちが向いて、イチゴ入りのショートケーキを食べくらべるまでになっていた。
 それが高じて、何十年ぶりかの「石垣いちご」詣でになった。

 安倍川の橋を渡ると、交通頻繁な国道150号わきの斜面に、〈みっしり〉とハウスが建ち並んで壮観。
 「石垣いちご」は健在であった。が、しかし、時期が年末まぢか。“いちご狩り”のシーズンは年明けからであり、時間が昼近いこともあって付近に人気はなく、直売所も開いていない。

 いつのまにか、久能山東照宮の登拝口。
 駐車場のおじさんが「歩いて登りますか」と笑って尋ねる。
「(歩いて)どのくらいですかネ」
「段数で千とちょっと、20分くらいですけど…」
 おじさんの顔が相変わらず笑っている。
 石段を見上げると高い、折りから雨模様でもあった。
日本平の方にまわれば、ロープウェイで行けますよ」
 (ゴメンなさい)そっちにさせてもらいます。

 ロープウェイに揺られて渡った久能山東照宮の急峻な構えにボクは、30年も前になるかも知れない行楽のときを想いだしていた。
 なにしろ、辺りは〈石だらけ〉であった。
 麓の「石垣いちご」の石はまだ小ぶりだったが。
 外敵の侵入に備えたという、東照宮の社殿をめぐる石段は、大人の男の脚でも「よいしょ」と踏ん張らねばならないほどに巨きく、息が急く。
 (もう、次に来ることはない…かも知れない、弱気が萌す)

 社務所のあるところで、さっきの登拝口からの石段道と合流しており、下を覗くと登って来る人の傘が一つ二つと見えてはいたが…前のときにも(ヤ~メた、一抜けた)気分になった記憶がある。
 東照宮に務める人たちは毎日、この石段を登り下りしているのだ、と聞いても(ははぁ)、他人ごとにすぎない。
 そんな気もちで眺めるせいか、石段の擦り減り方も、あのときと変わってはいないようだった。

 ここからは、眼下に見渡すイチゴハウスが一段と壮観。
 むかし味わった「石垣いちご」の酸味が、ゴクンと喉に蘇ってきた。