-No.0367-
★2014年09月23日(火曜日、秋分の日)
★《3.11》フクシマから → 1293日
★オリンピック東京まで → 2131日
◆「無言の挨拶」の空怖ろしさ
〈秋分の日〉に…というわけでもない、のだけれど。
夏のギラギラとは違ってきた「秋の陽のヴィオロンの…」、そこはかとない寂寥感があってのことにはチガイない。
こちらから送った「たより」への、返信が少なくなってきました。
(あちらからいただく「たより」も少ないのはもちろんのこと)
それも、つい最近に始まったことではなくて。
ぼくは、これまでも、ずいぶん我慢してきた覚えがあるので。
分量でいえば、そう“フクシマ”の放射能汚染水タンクがもうギリギリ満杯、のところまできているような状況なのです。
まず、封書にせよ葉書にせよ、郵送される文書のこと。
ぼくは、やはり、これが「たより」の原点だと思います。
理由は、「行間」というものがあるから、メールに行間はありません。
言葉にはならない「心の襞」まで伝えてくれる、行間は「たより」の命なのに。
電話の普及が、文書の「たより」が減りだした始まり。
たしかにそのころ電話は、手書き文字や文章作法の苦手な人にとっては、まさしく福音。
昔の人の達者な筆づかいや、流れるような文章法は立派にすぎて、比べようもない自分の乱文乱筆には、手を焼いた人が多かったのは事実ですが。
おなじ乱文乱筆なかまのボクだって、それでも「行間」のある「たより」の佳さをすてきれない。
なのに「めんどう」だからという理由で、簡便な電話にすがりつきました。
電話の肉声には、肉筆の「たより」にはない、棘や毒もあることを知らずに。
それが、ひいては「返事」をしない、結果「黙殺」へとひたすら退化してきました。
ファックスは、正確ではあっても、情緒などは削ぎ落とされるもの。
電子メールのたぐいは、もはや、ただの「やりとり」、表面的な意思疎通にすぎません。
けれども、時勢・潮流には逆らえず、ボクもいまはメールで「やりとり」してる。
(返事がない)よりはマシか…と思ったからでしたが。
イケマセンでしたね、メールだって同じこと。
自分の都合がわるいか、面倒くさいかすると、返信をしない。
「悪気はない」つもりでしょうが、この「無言の挨拶」ほどキツイものもない。
いきなり頬っぺたに平手打ち…くらいのヒドイ仕業。
その痛さを知っていながら、自分も相手に同じ手を使ってしまう、空怖ろしさ。
だから逆に、いまの子どもたち世代は、必死になって孤立を避けるためだけの、さして意味もないアイサツの「やりとり」に汲々とするんだよ…ね。
そういうわけで…。
「行間」の情趣あじわえる文書の「たより」から、いまのぼくはジリジリと後退を余儀なくされながら、必死に耐えているのデス。
「返信ください」という、なんと、言わずもがな…の一文を加える抵抗こころみつつ。
そうして、そういう自分がいつのまにか、「無言の挨拶」族にとりこまれてしまう空怖ろしさに内心おびえつつ…。
(この、薄汚れちまった流れって、イジメとかセクハラとか、ヘイトスピーチとかの動向とおなじ、いずれは合流することになるんじゃないだろうか)