-No.0136-
★2014年02月04日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 1062日
★オリンピック東京まで → 2362日
テニスのデ杯(デビスカップ)といっても、いまの日本ではあまり存在感がない。
田園コロシアム(世田谷区田園調布)が日本テニスのメッカだった時代も、いまはむかし。
デビスカップは、全英・全米・全豪オープンに代表される個人戦とは別個の、国別対抗戦。
各国4名の代表選手によって、1日目シングルス2試合、2日目ダブルス1試合、3日目シングルス2試合の計5試合を行い、先に3勝をあげた国が勝利する。
シングルス1日目2試合と3日目2試合は、代表2選手同士の裏返しカードになることが多く、2日目のダブルスが勝負のポイントになるのだった。
地域大会を勝ち上がった16カ国で競われるワールド・グループの1回戦で、今年初めて日本が勝ってベスト8に進んだ。対戦相手のカナダは昨年のベスト4。
日本は、エース錦織圭がシングルスで2勝の活躍だったが、勝負としては、錦織がダブルスにも出て勝ったのが大きかった。
現在のデ杯会場は有明コロシアムだが、最初の舞台は田園コロシアムだった。
ぼくが観戦したのは1970年代後半の頃、選手には坂井利郎とか神和住純がいた。
あの頃はアジア&オセアニア・ゾーンの突破すらたいへんな時代で、強豪オーストラリアが厚い壁なり、インドも手強い相手だった。
あの頃の日本では、テニスは上流階級のスポーツ、庶民には高嶺の花、憧れの世界だった。
同時に、田園調布という街そのものに上流の香りがあり、ぼくらがそれを、それとなく嗅ぎとるチャンスが、田園コロシアムでのデ杯戦だった。
東急・田園調布駅からほど近いところに、田園テニス倶楽部という名門クラブがあり、田園コロシアムがそのメインスタジアムであった。
ぼくらは陽光ふりそそぐ青空のもと、映像に夢見た本場ウィンブルドン・センターコートのふんいきを求め、いくらか気どった仕草で白球を追ったものだった。
その頃のテニスは、いまの炸裂する強烈なサービス・エースとは一味ちがう、ラリー・テクニックのポイントが歓声とどよめきを誘ったものだった…。
そんなボクの青少年時代と、いまと、日本のスポーツはどこが、どれほど違ってきたのだろうか…と思う。
その“開花の大きさ”を見れば格段のチガイを感じる反面、“根っこ”のあたりの土壌についてはさほどのチガイナイ感もある。
メジャーに行った田中将大の、ケタ外れな高額契約にはショウジキ鼻白んだ人が多かった。
もうじき開幕するソチ冬期オリンピックにも、われわれの思い及ばないようなところで、かなりの高額費用がかけられてもいる。
ぼくらが、それをヨシとし、他人ごとながらウレシく思い、たとえば1個のオリンピック・メダル獲得に賭けられる高額費用と、どこまでならオリアイがつけられるのか。
その影にたたずむ多くの人たちの無念、まだまだとても平等とはいえない環境など、パラリンピックの分野も含めて考えさせられることは多い。