どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

 かったるい風が吹く“帰還困難区域”/《3.11》二年め夏の被災地巡礼【3】  −ものものしい無情のバリケード、飯舘村−






◆2012年8月1日、水曜日。飯舘村へ。


 二度目の、飯舘村
 一度目は福島市から国道114号ルートをたどった。
 こんどはすぐ南隣りの二本松市から、ほぼ真東に向かって県道62号を行く。この道は“フクシマ”原発北側の原町市、相馬郡の沿岸に至る。


 アプローチの距離は長いが、飯舘村の山野はのびやかで、牧歌的な長閑〔のどか〕さが、ふと放射能汚染の現実を忘れさせる。
 昨日の、双葉郡の二つの村と比べると、あっちは山林・原野の世界、こちらは高原といいたいほどに天地が開けて見える(実際のところ飯舘村の森林面積は75%、葛尾村90%との差15%がとても大きく感じられる)。
   うさぎ 追いし かの山…
   小鮒 釣りし かの川…
 はじめて触れた飯舘の山河の情景に、しぜん童謡『故郷』が口をついてでた(−2011.9.24−記事)のを想いだす。
 


 おなじ『故郷』の唄、メロディー。
 「あの曲……いまは聞きたくねぇな……」
 「どこにも、なんにもねぇんだもの……涙こぼれる……」
 しぼりだす声のかすれる人たちが、いまもいる。
 なにもかもを津波に奪い浚われた沿岸に、茫然と立ち尽くすほかない人たちが。
   夢は いまも めぐりて…
   忘れがたき ふるさと…

 
 想えば、つくづくと、皮肉な巡り合わせというほかない。
 “フクシマ”さえなければ、津波に被災した沿岸部の人たちの避難先になったであろう天地が、まったく思いもよらない別次元の、目に見えない汚染の恐怖に曝されているのだ。


 村に入ってまもなく、道の辻の“この先通行禁止”の看板を横目に進むと、明るく開けた村なかの道に突然、無粋な〈通せんぼ〉のバリケードが現れ、雇われたらしい警備の人が二人、しきりにあれこれ確認しあっていた。
 この先の長泥地区、74世帯276人の住む地域が、村で唯一“帰還困難地域”に指定されたのだった。
 村全域が“計画的避難区域”だったところへ、見直しがあって、全20地区が新たに三つの地域に再編された飯舘村。その三つは、5年以上帰還不能で立ち入りも制限される「帰還困難区域」(1地区)、立ち入りは自由にできる「居住制限区域」(15地区)、早期帰還を目指す「避難指示解除準備区域」(4地区)。
 長泥地区の“帰還困難区域”は、年間50ミリシーベルト超の高放射線量…といわれても、風景には差異の欠片も認められるわけではないのだが、そう決められたのが7月17日。
 地区住民の人たちは16日までに一時帰宅をし、荷物の運び出しや墓参りなどをすませて家に別れを告げた、という。
 バリケードの警備員に訊ねると、この区域への立ち入りは8時〜17時に限られ、住民は暗証番号で鍵を開けることができるが、宿泊はできない、という。
 「追いだされた」
 「もう帰れないかも…」
 住民たちの嘆きををよそに、封鎖された道や田んぼには夏草が伸びてはいたけれども、風景としてはまだ荒れてはいなかった…それだけに酷い。

 
◆「除染はむずかしい」…村長だってわかってるはずだが


 戻る道々、“帰還困難地区”に指定されてはいない地区の、民家が固く戸を閉ざし、門口の風車の鳥が無心に高原の風を受けていた。
 《3.11》以来、たびたびテレビ画面にも新聞紙上にも顔を見せた時のヒト菅野村長は、あくまでも「除染して帰村を目指す」というが、「除染なんてどだい無理な話しだし新天地に移転の選択肢だってあるだろう」との意見も少なくない。


 村役場に行くと、駐車場には“見守り隊”の軽車両がたくさん停まっている。
 いうまでもない、葛尾村でも見た(住民によるいまは無人の住戸の)防犯パトロールである。仮設から毎日通って日中だけの滞在、夜は不在…という異常な状態が、“フクシマ”周辺では日常化してしまっているのだった。
 敷地つづきの、村の活性化センターに特殊養護老人ホームがある。
 現在、在居80名。動かせない事情でやむをえず(数社の企業ともども)村内にのこされ人たちが、いまになってみればかえって存在感を強くしていた。 職員に訊ねると「おかげさまで、とくに目だったことはない」という。それがまた、ごく自然に聞こえてしまうのに、戸惑いを覚える。
 「いたずらに時間ばっかりたってしまううちに、白けた土地がバカみたいに見えてきましたね」
 パトロール隊員の一人がこっそり言った。
 彼は、周囲に広がる田園とその向こうの山稜に目をやり、「こんだけの広い範囲を除染なんて…無理でしょ。表面けずったって、山からの水が汚染はこんでくる。山の木さ焼いたって放射能はのこるんでしょ…」。
 ここでふと、前の日に訪ねてきた双葉郡の二つの村(川内・葛尾)のことが脳裡にうかんだ。
 「双葉郡民の第二のふるさと」を目指す川内村は、風向きという自然の〈さじ加減〉ひとつで飯舘村と明暗をわけた、立地の条件では飯舘村より遜色あきらかである。
 また葛尾村民の「帰れっこねぇべ」という至極率直なものいいにくらべ、飯舘村民の「除染はむずかしいと思う」の言辞にはこれまでの開拓の労苦と、希望の前途を無にされた〈やるせなさ〉が滲む。


 《3.11》以前の飯舘村がどんな村であったか、<2011.09.24>の記事を想いだしてほしい。
 “日本で最も美しい村”連合に参加、までい(真手い=ていねい)な暮らしを掲げ、高原野菜や花卉栽培と飯舘牛で村おこしをしてきたのだ。
 それだけに高まりつつあった村民意識はいま、村長の「10年後には復興の達成」に耳を疑う。
 カタチだけ一通りやってみて、やっぱりだめでした…ってのが国のシナリオじゃないのか。そのあいだに皆んなが早めに、補償もなにも諦めて、自主的に離れて行ってくれるのを待ってるんじゃないのか。どうにも取り返しがつきません、立ち退いてくださいって、国と東電で土地を買い上げてくれればいい…と、思いはそこへいく。
 そうはいっても狭い日本、全村まとまって移転できるような土地があるとも思えない。だから何戸ずつでもいい、まとまれるところからでいい。
 ……住民がいいたいのはそれで、そんなことは村長だってわかっているはずだ、ということなのだ。


 その思いも、きっと間違ってはいないだろう。
 だが町長には、思うほどに暗然とせざるをえない別の判断があるはずだ。
 「天下国家は油断も隙もならない」
 たぶん、そういうことであろう。そして、この判断も間違ってはいない。
 よほど巧妙に起ちまわらなければ、きっと、こちらが臍を噛むことになるだろう。
 なぜなら世の中、楯ついたヤツにいい顔を見せる、なんてことはまずアリエナイからだ。相手が国家権力ともなれば、そのシッペ返しのえげつなさも想像に難くない。
 村長にはきっと、一世一代の意地と度胸の清水の舞台、にちがいない。


 山中に入ると、どうしても海が見たくなる。
 松川浦に近い、相馬市の原釜漁港に行ってみた。震災“フクシマ”後、ようやく一部の漁が再開になったと聞いたからだが…すでに昼すぎ。
 船はみな漁から戻って、水揚げなどの作業もすっかりすんでしまっており、岸壁などまだ被災時のまま手つかずの、漁港は午睡のなかにあるようだった。
 静かな波間に揺れる船の脇で網を繕っていた漁師がぼそっと呟いた。
 「まだまだ…だナ、うん、ちっとだし、放射能は心配だし、こんなんじゃ話にもなんねぇ」


◆「村には帰らない」人が70%近くなった


 2013年が明けて早々の1月に、飯舘村民の意識調査の結果が公表された(調査の実施は12年秋から暮れ)。
  <どのような状態なら村に戻って暮らすか>という設問に対して
   ・年間放射線量1ミリシーベルト未満(国の安全基準)……38.8%
   ・  同   5ミリシーベルト未満        …… 6.9%
   ・数値に関係なく村には戻らない          ……21.9%
 あわせると「除染目標の20ミリシーベルト以下を達成できても村に戻らない」意向の人が67.6%だった。
 調査は、多くの世論調査と同様のものだけれども、民間の手によって行われたもので、オカミ系の調査とはちがってシガラミがない。
 これまでの調査では「もう戻らない」つもりの人が30%くらいとされていたから、この数値は大きい…が、正直なところ被災地の方々と接してきた者にとってオドロキはない。むしろ想いは(そうだろうな…)である。
 あえて極言すれば、(どうしても故郷に戻りたい)と望んだのは多くが年寄り、(見知らぬ土地で死にたくはない)のがぎりぎりの本音だった。


 若い世代の多くは、故郷を離れて住むことに慣れ、そちらですでに職もえている。年寄りの頑張り、つまりは我が儘が、どこまで通せるものか…。
 いっこうに見えてこない復興の道すじ、厳しい現実に人々はようやく気づいた感がふかい。
 同調査の<村行政に期待すること(複数回答)>でも、「徹底的な除染」49%を「補償・賠償交渉」73.8%が上まわった。
 「無駄な除染に余計な金をかけるより、生活再建を支援してほしい」のはとうぜんだろう。
 飯舘村というひとつの自治体がいま、“フクシマ”のせいで分裂・解体ぶくみの危地に追い込まれようとしている。