4月3日(火)
下風呂温泉の朝。
共同浴場“大湯”に暖簾がでる。風冷たい海から帰った漁師たちが「なにより愉しみ」にする湯だ。
曇り空を、つよい風がときおり吹き渡る。
“春の嵐”を呼ぶ低気圧の接近で、どうやら天気は急な下り坂。ぼくたちは今日、午後の函館行きフェリーに乗るつもりでいるが、欠航の怖れもでてきた。
「港で足留めになったら、戻ってくるかもしれない」「ここからじゃ、沖のことまでわかりませんしネ」
宿の女将と、冗談半分ともつかない話しになった。
山影や路地裏にはまだ消え残る雪が目だつ温泉旅館街。ちょうどその肩甲骨にあたる辺りに<鉄道メモリアルロード>というのがある。幻におわった下北半島縦断鉄道(東北本線野辺地駅から大間まで)の遺構、アーチ橋の上部を遊歩道にしたもので、駅舎ふうの四阿〔あずまや〕には足湯もあるとのことだが、ここも積雪閉鎖になっていた。
これもいまとなっては昔語りだけれど、青函トンネルの計画段階では大間ルートも候補にあがっていた。
もうひとつ、前青森県知事が提唱した<津軽海峡大橋>構想(大間−函館市汐首岬、18Km)もあったりしたのだが…どれも実現しなかったか、あるいは実現しそうにもない。
詳しい話しは別稿にゆずるが、下北半島はそういうところである。
女将との世間話に、大間原発も気兼ねしながら顔をだす。ださざるをえない、ほかに話題がたくさんあるわけでもないのだから。
「もうさ、受け入れ決めて、金もらっちゃってるんだものネ。なにがあったってぇ…覚悟するしかないっしょよ。もし、いまからイヤだっていったら、もらった金かえさなきゃなんないだろうけど…とてもとても、返せっこないからねャ」
大間の知りあいの一人はそういっている、ということだった。
下風呂温泉のあるところを風間浦村という、好きな地名のひとつ。地名はときに案内記よりも優れた風土記、風間浦村はそういうところだ。
“むつはまなすライン”と称される(そう呼ぶ人は少ないけれど…)国道279号は、ずっと津軽海峡沿い。
津軽海峡はぼくにとって、なにしろ特別な海。イカの海峡、耿々〔こうこう〕と揺らめく漁火の海峡、いうまでもない。
函館側の“いかそうめん”(糸造りのいか刺し)は、断然おろし生姜醤油ですすり込むのを本筋とし、ワサビ醤油などではイカの甘みが台無しで「場ちがい」としかいいようがない。上品にちまちま箸でつままれたりした日には、イカに、海峡に、申し訳が立たない。
青函連絡船ではじめて海峡を渡った早朝、朝市の、トロ箱の活きイカに目が眩んで衝動的に買ってしまい、あと途方に暮れていたら飯屋のおばちゃんが、親切に<そうめん>に造ってくれたのを忘れない。かみさんの実家での朝は味噌汁の匂いと、イカ刺し造る包丁の音とで目覚めたものだった。
下北側のイカでは“げそ貝焼〔かや〕き”が忘れられない。これもぼくがまだずっと若い頃、はじめての下風呂温泉に連泊した折り、宿の女将が「家のまかない料理で、お客さんにお出しするようなものではないけれども…」といって遠慮がちに持ってきてくれたもの。イカのゲソ(下足)の刻んだのをワタ(腸)とともにホタテの貝鍋で焼いただけの、とびきり鮮度を味わう潔さに思わず舌が鳴った。「こんな旨いものを賄い(料理)にしておくのはもったいない、とくに呑ん兵衛の客にはぜひ出してやってよ」おおいに薦めて帰ったら、その後、東京の郷土料理店のメニューに出世していたりしたこともあった。
イカのワタでは、新鮮なのを丸ごと粗塩でくるんで一晩、風にあて、上等なウィンナーみたいにぷりぷりになったのを輪切りにして、熱々の飯にのせて喰う…。
想っただけで生唾だ。
隣り町の大間は、本州最北の町。
大間崎と呼ぶ本州最北端の岬があるものの、ふつうイメージされる岬とは異なって、まるで突端らしくない。鼻ぺちゃ…な感じ。似たところというと、北海道の宗谷岬になる。あちらもやっぱり鼻ぺちゃ、日本最北端の岬。
それでいて、訪れる人を寄せつけようとしない、邪険に突きっぱなす風ばかりが烈しい。岬のちょっとばかり先に小さな灯台の立つ弁天島が、これも這いつくばっており、付近はソイやアイナメ釣りの好ポイントというのだけれど、ぼくはそこに釣り人の姿を見かけたことがない。
フェリーの港は遮るものとてない吹きっ曝しにあり、北海道へは最短にちがいないが、とても風待ちにいい港とはいえない。
町そのものが、海峡に向かってなだらかに平たく下っていくばかり(そのまま沈みこんでいきそう)なので、やりきれなく不安で、高い所に立って見たくなったが、案内所らしきものには人影がない。
町役場を訪ねると、古ぼけた小さな建物が、いまどき思いきり懐かしいくらい質素なたたずまいに、ぼくは瞬時ドキンと好感を抱かされてしまった。ガマンしたなぁ…シンボウしたよなぁ…もれるタメ息にワケはない。
きのう見てきた六ヶ所村役場のデンと威張った構えとは余りにも違って、ミスボラシく同情をひくようなありさまだった。
とりあえず「観光課」を尋ねると、道を挟んでさらに質素な別棟に案内される。どこかの会社の事務所だったのを譲り受けたものだろうか。
男性職員が、やや不慣れな様子で一揃いの案内パンフと、大間マグロなど一通りの町の売物を説明してくれる。「高いところから町を見たい」といったら、「シーサイドキャトルパークの展望台」を教えてくれ、雪は残っているが上れるとのことだった。
礼をいって去りぎわに大間原発のことを聞くと、「あれから工事は自主中断中です」手慣れた返答、<自主>のところに力が籠められていた。完成までの工事進捗率は40%の一歩手前くらいのところだろうという。こちらが「困るよね」どうともとれる問い方をすると「そうです…ネ」。その無表情な声音からは、なにがどう困るのかを考えたくはない…ように感じられた。町の遠い将来はどうなるのか…など考えたくても考えられない、といいたそうな固い表情だった。
シーサイドキャトルパークというのは町営の観光牧場で、なだらかな丘になった上の、やたら風通しのいい展望台に立つと、すぐに耳が痺れてきた。
下北半島の東、尻屋崎の方に東通村という、ここも原発立地の村がある。不意に、この「東通り」も「風通し」のことだな、と納得がいく。
展望台からは北西の方角に大間崎と港が見え、延長線上の波立つ海峡、分厚く黒い雲の向こうには函館山があるはずだった。
西に目を移していくと、大間原発が見えてくる。
(これが町の経済の“救い主”か…)と思う。しかし、これに向かって朝な夕なにありがたく拝む人はなかろう、陸奥湾の向こう津軽の“お山(岩木山=津軽富士)”のように。あるいは下北の“お山(恐山)”のように死霊を恐れ拝む、というのだろうか。
それにしても原発事業関係者というのは、じつに鋭い嗅覚で、ウマイところに目をつける、と思う。ほとほと感心させられるくらいだ。
もちろん、暮らしぶりの楽ではなさそうなところが狙われるのだけれど、それだってただ貧しげなだけじゃない。なんといったらいいだろう、ちょっと草臥れてきている、心もちめげかかっている、とくに誰がというのではない総体的に倦怠な気分が漂っているようなところの、思いがけない隙間、欠伸みたいな神経のこまかい油断をついてくる。
ピカドン敗戦のすぐ後に生まれ、原発には初めから強い警戒感を抱きつづけてきたぼくは、原発立地の(たとえば過疎でも人跡と執着はある)土地柄に接するたびに、その風土に身を置くたびに「そうだよ…な」と、原発事業当事者の(まったく抜け目のない)したたかさに舌を巻く。いま現在ある原発立地のほとんどが、これにあてはまる。さらには「これから狙われそうな…」ところ(たぶんもう目星は付けられている)も、その数がけっして少なくはないことも、わかっている。
(ただし原発立地の集中する福井県については、べつに、もっと奥深い歴史的・文化的な考察が必要なのだろうと思われる)
そうして見ると大間というところも、原発に狙われる条件にドンピシャの町だった。
たとえ、一本数百万円にもなる大人気の本マグロが海峡で獲れるからといって、それだけでどうなるものでもない。
原発立地の町村には観光資源に恵まれたところも多いので、最初ぼくは「観光客に嫌われる(…から原発は止めた方がいい)」といってきたのだけれど、これはぜんぜん効果がなかった。 ある原発立地の村長がいっていた。
「観光は、来てくれる方にも、来てもらう方にも、癒しではあるがそこまで、癒し以上にはならない」
ぼくは先ほど目にしてきたボロい大間町役場を想い出し、この草臥れ果てた建物がこんど訪れたときには、六ヶ所村役場みたいにデンと反っくり返ってる図を想ってもみた。
よくよく考えてみると、下北半島ひっくるめた全体が原発事業立地の狙い目といえるし、実際すでに先々の目論みはあるのではないかと思われる節もある。
その場合の最終的なモンダイが<そこに人を住まわせたままか…>にあることは、いうまでもない。万々一<原発やむなし>の事態になったとして、もし全下北半島を原発の集中極限基地にしようというのであれば、そこは無人で隔絶された存在でなければならない。これまでそこに住んできた人々には、その労に十二分に報いるだけの代替地が用意されなければならない。これまでのように、そこに住まわせたままで騙し騙し、なし崩しに生きて行けなくしてしまうことだけは、許されない。「国とはなにか」の答えも、その覚悟のうちにあるのだと思う。
そうして懸命に空想して見る未来の下北半島…しかし、そのすこぶる風通しのよい“まさかり”の大地には、どうしても原発なんかではない、風力発電の圧倒的な風車群が見えてくるばかりなのだった……。
大間から始まる国道338号を佐井・脇野沢方面へ、“まさかり”の刃渡りを行く。
ぼくにとってはこの道も、特別な道である。
刃渡りの懸崖を縫う山道の途中、大間から1時間ばかりのところに“仏ヶ浦”の(あえていう)霊妙奇瑞〔きずい〕がある。青みがかった白い岩肌が屹立林立、仏の群像を想わせ…ガイドブックの「地の果ての極楽浄土」という表現はオカシなものだが、フム…そんな感じがまぁしないでもない。
水上勉の原作、内田吐夢監督の映画『飢餓海峡』、その最重要ポイントとなり、ぼくの人生にとっても大きなポイントなったところだ。
内田吐夢さんには、その後いちどお逢いしたことがあり、「引き出しはたくさん用意しておくことです」といわれた。
水上勉さんの原作については、のちに「流れのきわめて速い津軽海峡を手漕ぎの舟で渡るのは不可能」という指摘がなされたりもしたが、ぼくは人間という生きもの存在の底力に賭けたい気分のほうが濃厚だった。海流には、主流のほかに反流も沿岸流もあって、複雑をきわめる。
あの〈3.11〉大津波にもっていかれたモノたちの行く末を見ても明らかなように…。
ぼくが大間−函館のフェリーで津軽海峡を渡りたくなるときは、“仏ヶ浦”を訪ねてみたくなったときなのだった。
けれどもこんどの旅では、その懸崖を縫う山道のずっと手前に用があった。
大間原子力発電所。電源開発(株)が平成20年から建設に着手、当初は同26年の運転開始を目論んでいた<改良型沸騰水型軽水炉>だ。ウランとプルトニウムの混合酸化物燃料(MOX燃料)を全炉心に装填可能なもので、出力は138.3万キロワット。
もちろん、こうした動きに反対の声がなかったわけではない。きわめて突出的な反対行動もあった…けれどもいま、表面的には「ない」といってもいい、いたって静かなものだ。全共闘騒動はげしい時代に青春だったぼくらには、ちょっと信じられないくらいに、いっそ不気味なくらいに。もっとも運動というものには、誰にも思いがけないような方向性が、ひとりでに生まれてしまったりしやすいものではあるけれど…。
工事中断中という、大間原発。例によって厳重警戒のゲート前を通り越し、奥戸漁港の岸壁に立つと全貌が眺められた。
学校は新学年前の春休み中。岸壁の辺りで遊んでいた子らは小学生、元気いっぱいに戯れていたけれど、すぐそこに見える原発の方を指差すと…途端にみなクルッと踵を返して散り散りになってしまった。この子らには、大人たちの世界の風向きがよくわかっている、事情はキチンとのみこめている。
役場の職員も語りたがらない今後の見とおしについていえば、これから先よほどの事態にならないかぎり、原発工事は完成目指して着々と進められ、そうしていちどは完成を見るにちがいない。彼ら当事者の、ぼくら一般庶民とのおおきな違いは、けっして中途で止めようとはしない、なんとしても諦めない執念深さにある。善いか悪いかの問題ではなく、とにかくやるとなったらヤル、ヤリトゲなければならない、ことなのだ。しかも個人として結果責任が問われることはないのだから、いくらでも平然と強気でいられる。
そのかわり、いちど完成を見てしまえば後のことには意外と素っ気ない。中止や廃止は、また別のこと。「そんな無責任なものとは思わなかった…」というのは、うけとる側の勝手、それこそ<後の祭>というヤツだ。
町にもどってスーパーを覗く。
「大間まぐろ」がいい値段で、そのわりには内容がシケている。
(そりゃそうだろう、東京の築地市場あたりに持って行ったほうがズッと高値に売れる)
かつて上京したとある地方漁協の方が、昼食の<刺身定食>に呆れていった、「5切以下じゃ…刺身とはいえない」と。
その昼飯どき、アルバイトのレジの女子高生に食事処の紹介を頼んだ。
「わたしの好きな店だったら…あのぅ、それでいいですかぁ」(もちろん…)
教わった小さな店は、昼は軽食・喫茶、夜はスナックという、地方の町によくある古典的なタイプ。
ボトル・キープの棚には、ウィスキーと焼酎が混ぜこぜ。原発関係の人たちが一時帰宅やらなんやらで「寂しいよ」。
ぼくらはそこで、女子高生レジおすすめのラーメンを食べた。
午後のフェリーで函館に渡るつもりと告げると、港に電話で問い合わせてくれる。
今朝の便は行って、戻ってきている、という。船は1隻のみの航路だった。
「だいじょうぶ、函館へは行くって…」
春の嵐吹きっ曝す大間港から、欠航があやぶまれた函館行きフェリーは、ぎりぎりセーフで海峡の荒波を渡って行った。
次の、大間港へ戻りの便から、欠航になった。