どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

一年後の被災地巡礼(6)   −遠野まごころネット・瓦礫二次撤去・復興食堂−






 3月30日(金)
 石油ストーブのボッと着火する音で目が覚めた。
 遠野浄化センター敷地内に設けられた“遠野まごころネットワーク”事務局および宿泊施設。
 時計を見ると6時ちょっと前、きょうから3日間のボランティア活動に参加する。


 まず、ここでのボランティア活動〈一日の流れ〉を、ぼく自身の確認のためにも記しておこう。
   6:00 起床(宿泊棟、チャイムが鳴る)
       *時間前に目覚ましを鳴らすことは禁止。
       *出かける前の準備、荷物の整理・片付け。
       *朝食をすませること、昼食の用意も、出かける前の準備に含まれる。
   7:40 ラジオ体操(正面広場)
   7:45 朝礼(正面広場)
       *朝礼後、活動現場のふりわけなどが行われる。
       *活動現場がきまったら、それぞれの列に並ぶ。
       *出発(現場ごとにバスや車で)
   16:00 活動終了
      *現場から帰ったら、長靴を洗うなどして片付け、明日に備える。
      *ビブス(認識標ベスト)は〈使用済み〉の籠に入れる。
   17:00 掃除(宿泊棟および周辺供用空間)
       *全員で手分け、協力する。  
   17:10 全体ミーティング(男性宿泊棟) 
       *全員参加。
       *ひきつづき初参加者むけオリエンテーリング
       *その後は、夕食・入浴など、自由時間。
       *寝床の確保など、就寝の準備。
   22:00 消灯(宿泊棟)
*消灯後も出入りは自由だが、マナーを守って静かに。


          *          *          *


 6時の起床。ぬくぬくベッドとは違って一人タタミ一畳に寝袋のスタイルだから、ここでは寝坊などしてはいられない。時間がくるのを待ち兼ねるようにして、まわりがゴソゴソ動き始めるからだ。寝たい盛りの若者たちも、寝ぼけ眼こすりこすり寝袋から這いだしてくる。
 「おはよう」の声をかけるのはだいたい年長者のほうで、若者でみずから挨拶してくる者は珍しい。これはふだん日常でもすでにそうで、うっかりすると「なんでアイサツしなきゃいけないんですか」なんて、グッと詰まらされるような答えが返ってきたりする。
 家庭で挨拶を躾〔しつけ〕ないらしい、いまはそんな時代が進んでいる。
 ボランティアにくるくらいの心だてはある若者たちだから、ここではそれほどひどくはないけれど…。


 暖房はこの季節、遠野あたりではまだ欠かせない。実際どれくらい冷え込むものかわからないし、ぼくは寒がりだから石油ストーブの近くに寝床を確保した。
 男性宿泊棟には大型エアコンが2台あったが、間に合わないので真ん中に石油ストーブ。そこに火の色があるだけで暖かい、囲炉裏とおなじようなものだ。
 石油ストーブは危険がともなうので、消灯とともに消し、起床とともに点ける。実際に明け方はかなり冷え、ぼくのいた3日間は毎日石油ストーブが焚かれた。

 
 寝袋を片付け、身仕舞、身辺整理をして、洗面、トイレ、それから朝飯。だが、順序もリズムもペースもてんでにことなる人たちのなか、邪魔されずに手早くすませるには要領がいる。そのてん場数かさねた経験者たちは、さすがに慣れたもので手際がいい。
 滞在3月以上にもなる人が何人かいる。なかには会社勤めを辞めちゃった人もいる。半月から1ヶ月ほどの活動を、都合のつけられる間をおいて繰り返す人はけっこういる。
 こういう筋金入りの人たちがいってみれば筋骨で、そこにぼくたちのような短期組が肉づけをしていくことになる。
 グループあり、カップルあり、親子があり、単身もいる。単身にも、学生をはじめ、勤め人、仕事人、年金族そのほか、老若男女、多彩をきわめる。
 朝飯用の食糧は前日の夕飯用と一緒にまとめて、スーパーやコンビニで買ってくる人が多い。ただし、浄化センターなんてとこが街中にあるわけないから、店もすぐ近くにはない。独身者なんかは日頃の延長でもあろうか、カップ麺などまとめて買い込んだもので食いつないだりしている。
 昼飯用に弁当の販売もある。共用の冷蔵庫もある。差し入れの飲食物「ご自由にどうぞ」というのもある。
 宿は市内の民宿などにとり、活動に出張ってくる人たちもいる。腰を据えて活動のため、部屋を借りている人もいる。
 なんにせよ自分でなんとかする、自己責任がボランティアの基本である。

           
 “遠野まごころネット”は、個人の活動参加を受け付ける(おそらくほかにはない)ボランティア組織だ。
 経験のない方にはドウシテかよくワカラナイかと思うが、人数をたのむボランティア活動には〈まとまり〉が求められ、ボランティア保険などそれにともなって必要になるさまざまな要件もあるから、おいそれとはいかない。つまり、100人をまとめるときには100人ばらばらより10人づつ10組の方がまとめやすい、ということ。
 わがニッポンではまだまだ、個人のボランティア活動のハードルは高い。どこかボランティア組織に参加(登録)すればいい、といっても活動にはそれぞれに約束ごとがあって、いつでも自由に参加できる…わけでもないのだ。これはかなりキビシイ条件といっていい。
 「どうすればいいの…」戸惑いの声は多いが、現実にはたいがい無視される。現場では…応えようがない、そんな余裕もない…ともいえる。
 ぼくの場合などもそこがネックで、巡礼の途次、立ち寄ってのボランティア活動参加なんか、ほかでは考えられない。

        
 身支度してラジオ体操の広場に出ると、参加人数も含めその日の活動の大要がつかめる。
 宿泊棟を利用するわれわれ個人や少人数グループのほかに、学校のサークルなど小規模の団体での参加もある。
 朝礼では、あれこれ近況の報告や要望・注意事項など。
 つづいて活動現場のふりわけが行われ、それぞれの人のその日一日が決まる。岩手県内被災各地での<ちから仕事>を軸に、関係各施設や組織・団体などからの依頼があればそのつど、仕事の内容、必要人数を掲示して募る。
 行先がきまった人たちは、それぞれ指定された列に並ぶ。


 〈ボランティア活動ルック〉というのがある。
  ・頭に、ヘルメットか帽子。
  ・目に、眼鏡かゴーグル。鼻と口に、マスク。いずれも防塵や花粉対策用。
  ・首に、タオル。
  ・手に、手袋(ゴム手袋+軍手または皮手袋)。
  ・服装は、長袖に長ズボン(暑くても安全第一)。
   *上着の見えやすいところに、名前を記した「岩手県災害ボランティアセンター」のステッカーを貼る。
  ・足に、長靴(踏み抜き防止インソール付)か安全靴。
   *現場用長靴と履き替えた靴を持ち運ぶビニール袋を必携(送迎バスなどに泥を持ち込まない)。
  ・背中にデイパック、または腰にウエストポーチ。
 以上のいでたちで、出がけに新しいビブス(認識標ベスト)をもらって胴着にする。
 なにしろとにもかくにも、安全第一。なにより怖いのが気の弛み、というやつ。
 朝礼でかならず「きょうも一日、怪我なく無事に帰ってきてください」といわれるのは、そのためなのだ。


           *          *          *        

 
 初日、ぼくは大船渡へ。
 大船渡市の民間ボランティア組織、さんさんの会(三陸気仙復興協議会)からのリクエストに応え、給食施設の建設手伝いに5人の少数隊で出かけた。
 <さんさんの会>は現在、仮設住宅住まいの被災者たちに毎日、食事の〈おかず〉を届けるサービス活動をしている。
 「ただ食べてもらうんじゃなくて、みなさんにもナニかしらひと手間かけてもらえる、食べるときに軽く火を通してもらうとか、なるべくそういうモノをお届けしようと思ってるんです、そうしていかないと生活に張りあいがなくなっちゃうから…」
 「婆っちゃなんかね、年寄りコキつかってぇ…なんて冗談いって、笑ってくれてますヨ」
 それって、イイんでないかい。
 〈マレーシアハウス〉と呼ぶその施設の、建設現場は国道107号筋。
 大工仕事と聞いたから、ぼくは木工の心得が生かせるかと思って志願したのだが、現場に行ってみると配管工事後の整地仕事、土木の方だった。
 依頼内容の把握に齟齬があったようだが、この程度はボランティア活動ではやむをえない。ほとんどみんなが素人なのだ。
 

 〈活動時間〉を見ておこう
  ・朝の出発が、8:30くらい。遠野から沿岸部の各被災地までが、車でおよそ1時間だから。
  ・午前中の作業時間は、約2時間(休憩30分)。
  ・昼休みが、1時間。
  ・午後の作業時間が、13:00からやはり約2時間(休憩30分)で、終了が15:30。
  ・帰路も車で1時間として、これですでに活動終了時間の16:00を、30分ほどオーバーすることになる。
   *一日の作業時間は、正味4時間そこそこ。
 これを「少ない」と見る人もいる、けれども…これが毎日つづくこと、慣れない作業であること、ボランティアであること、を想わねばならない。


 敷地裏に積まれた土の山から、個々シャベルに掬っては運び、配管済みの溝を埋めていく。単純作業で、けっこうきつい。
 人員構成は、老若の男が二人ずつに若い女性が一人だったが、結果、もっとも働きがよかったのは女性だった。シャベルの使い方も知らなかった人が、ほとんど息も切らさなかった。
 昼飯には、〈さんさんの会〉女性スタッフ手作りの料理がふるまわれ、やぁ美味かったこと。ラッキーなこういう余禄がつくことも間々ある。
 地元ボランティアさんの発案で、陸前高田の瓦礫砂をトラックで運んで敷き、敷地の凹凸を均した。キレイに見えても、中にはガラスやプラスチックの破片が混じり、選別に手間取ったりもした。未だ湿り気の残る砂には、想いだすあの大津波の後の〈潮煎り土砂瓦礫〉の臭いがムッと籠っていた…。
 午後は時間に余裕ができたので、脇の竹やぶの片付けまでして「ごくろうさま」。
 午後4時すぎに帰ると、この日の上がりではいちばん早いほうだった。
 この日、かみさんの方は浄化センターにのこり、隣接地に整地中のボランティア用駐車場の整備仕事。雨降りの泥濘〔ぬかるみ〕 対策に砂利を敷き詰めた。こちらも慣れない作業に戸惑いつつ、終わってみれば「よくやったわよね」だったという。
 自衛隊組織力とは比べものにならないけれど、これも〈人海戦術〉の成果といっていいだろう。ボランティアの原点だ。   


          *          *          *


 “まごころネット”に戻って男性宿泊棟に入ると、ぼくたちは早帰りの方だったにもかかわらず、部屋にはすでに何人かの人が居て、きょうは活動を休んだ人もあれば、なにやらワケのワカラナイわけありふうの人もいた。しかも、その場には居慣れたふうの、ある種の特異な雰囲気をかもしだしており、連れ立っている仲間とだけくだけた口をきいたりしている。
 とうぜん(ヘンだな)と思う人がほかにもある、けれども皆それぞれが個々人だからしかたない黙って見すごすことになる。
 後になって、これは女性宿泊棟にも見られることだとわかった。
 いろいろと細かい事情はあるのだろう。が、こういうことは人間関係を微妙に左右するから、なるべくこまめに説明しておかないといけないと思う。
 「お疲れさま」ねぎらいの声かけてくる人もあれば、ただ無言の人もいる。
 ここらが個人ボランティアを受け付ける組織のむずかしさではないか、とタメ息まじりに思う。ほかにもある。
 男性宿泊棟の場合、<牢名主>ふうの人が居る。もちろんベテランの古顔である。子分みたいなのもできている。ほか一般の人との間には、どうしても一線が画されることになる。
 これも明らかにベテランの、諸用めんどう見の人が居る。たとえば掃除用の雑巾などを洗濯し、干し、乾けば取り込む。共用備品などにも目を配り、不備に気が付けば片づける。あれこれの用事を一人で無言でこなし、手伝ってほしいと誰かに声をかけることもない。他人を避けるわけではないが、目をあわせようとしない。
 この二人が、仲がわるいわけでもないらしいのに、相談したり連携したりということもない。
 どちらも(惜しい)と思う。ボランティア団体の一員だったら、きっとリーダー格だろう。
 個人ボランティアたちをまとめてナニかを成し遂げていくむずかしさが、ここにも垣間見える。
 みずから巡礼タイプのぼくは、ボランティア組織をひきいたことはない。ガラじゃないことはわきまえてもいるからだが、子どもたちのキャンプならアウトドア体験の指導しながら、一週間くらいの面倒は何度も見てきている。
 すぐれたリーダーや指導員には、惹きつける人気、巧まざる引力があり、なかなかマネられるものではない。
 話術や話法のうまい、まずいもある。ぼくみたいに機智っ気のない直情型の者は、それだけで失格だ。


 夕方5時からの掃除は、全員協力がたてまえだが…。
 とくに声がかかるわけではないから、はじめて組は誰かが動きだすのにハッと気づいて、慌てて押っ取り刀だ。
 宿泊棟および周辺供用空間を掃いて、拭く。手分けといってもキマリはないから、要領のいい者わるい者、〈なんにも仙人〉たちもいる。
 つづいて全体ミーティングは、男性宿泊棟に全員が集まる。
 春休み後(学生たちが帰ったあと)のこの時期でほぼいっぱいだから、夏休み中などはエライすし詰めになるのだろう。ふれあいの活気あふれてイイ。
 まずリーダーたちから、一日の活動報告そのほか。
 いい話しには拍手がわく。イイね。
 ボランティアの心得を忘れないでほしい、という全員にむけてのお叱りと確認がある。
 その理由というのが、ルールともいえないごく常識的なこと、配慮のなさだったり。で、なるほどもっともだと思うけれども、ちょっとコワイ。コワイのは、やっぱりいけない。
 「ほかに、キョウユウしておきたいこと、ありますか」
 司会者から呼びかけがあって、されど「……」怪訝な面持の人が多い。無理もない、専門用語というか特殊な響きをもつコトバだ。
 「共有」のことで、意見やアピールを指す。
 ぼくは全共闘世代だから、つい「ワレワレわぁ…」と高っ調子のアジ演説調を思いだしてしまう。
 ヘンに意識なんかしないで、ふつうに「なにかありますか」でいいと思うのだが…。
 「被災の風化」が語られ、「トイレ掃除への無理解」が訴えられ、弁当・入浴・宿泊情報などの紹介もある。
 すべて先輩が語り後輩が聞くかたちで進められ、少なくともぼくのいた3日間は、異論も反論も無邪気もなかった。
 父親と参加の、中学生の男の子が一人いたので感想を聞いてみたかったが、チャンスがなかった。
 初参加者はこのあと、オリエンテーリングを受ける。
 ちなみに、発言のときなど自己紹介のかたちは「○○からきました○○です」と出身地をいう。肩書きのかわりだろうか。
 聞く方もなんとなく、それでその人がワカッタような気がするのだから、考えてみればおかしなものだ。
 関東・甲信越方面からの人が多く、次いで関西が目立つのは、やはり“阪神淡路”の経験があるからかと思われる。


 夕刻、雨。
 6時ころからは夕食や入浴・洗濯そのほか、各自それぞれの自由時間。といっても、じつはそれほどの暇はない。
 ぼくらも活動初日と二日目に入浴したが、帰って夕飯に軽く一杯やったら、あとはもうオヤスミだった。慣れない作業の疲れもある。
 入浴は、送迎バスサービスのある大型宿泊施設行きから、歩いて行ける近所の銭湯まで、いくつかの方法があった。
 初日、ぼくらは送迎バス付きの贅沢入浴。
 二日目は、“まごころネット”の車に乗り合いで行く入浴施設へ。
 希望者が多かったので車2台になり、ドライバーが足りないというので急遽ぼくが運転を引き受けたが、なにかあるといけない…ので誓約書に署名したり免許証のコピー提出したり。慣れない車に他人を乗せるのも慣れないことで、たいへんだったけれどいい想い出もできた。
 帰途スーパーマーケットで食品を調達、同年輩の方もまじえてささやかな宴。これでオシマイ。
 寝床を確保し、寝袋ひろげて就寝の準備。
 横になって少し本でも読もうかと思ったが、消灯前にコテンと熟睡モードだった……。
 夜半に余震があった。


          *          *          *


 活動二日目は、3月31日(土)。
 活動三日目は、4月1日(日)。
 この両日の間に、じつは大きな変化があった。
 ひとつは、新学期が始まって学生ボランティアの数が減り、“まごころネット”の宿泊者はほぼ半減した。
 もうひとつには、〈ボランティア保険〉の年度切り換えにあたり、4月1日からは新たな申請が必要だった。ボランティア保険に加入していないとボランティア活動に参加できない。まぁ、ぼくたちもそうだし、たいがいの人は心得て更新手続きをしてきていたが、人員減に影響がなくはなかった。


 二日目と三日目のぼくらは、いちばん基本の瓦礫撤去〈大槌隊〉に加わった。
 もうひとつ〈釜石隊〉もあったのだけれど、最初からの行き掛かりで大槌町の方に手を上げてしまった。ボランティア活動にも、人それぞれの思いや感性がからむ。
  *〈2011.8.23〉および〈2011.10.24〉の記事を参照ください。
 じつをいうと三日目は、掲示板に募集のあった〈大槌わかめ隊=収穫したワカメの処理作業〉に行ってみようかと思ったのだが。申込名簿を見ると残りあと一人…戸惑ったところへ後ろから「あのぅ…いいですか」と若い女性の声がかかって、「あぁ…どうぞ」てことになったのだった。
 長靴の入ったビニール袋を提げ、デイパックを背に、新しいビブス付けてバスに乗り込む。事務局の人たちに見送られて出発。


 引率は、リーダーとサブリーダーの二人。
 移動の車中で、きょう一日の予定が話され、かいつまんだ現地大槌の状況説明や、その様子を伝える写真集の本の回覧があったりした。
 現地に近づいたところで、トイレ休憩。この気のつかいよう、バスツアーなみで頭が下がる。
 沿岸の被災地に入ると、釜石港あたりから車窓に展開する風景についての克明な説明がある。これには被災の〈風化〉を防ぐ思いの丈が滲む。
 なによりもボランティア参加者たちが帰宅後に、友人知人やまわりの人々にナマの実感報告をしてくれることが、つながり頼りになるからだ。
 それぞれにジッと窓外を見つめ、ときおり質問の声があがる…。
 現場は、大槌港の北側、赤浜地区。
 “ひょっこりひょうたん島”のモデル蓬莱島に近い。
 その蓬莱島、危うく難を逃れたかに見えていたが、案じたとおり地盤は傷んでいたらしい、小さな赤灯台が基礎の岩磯から崩れてしまっていた。いま新しい灯台が準備されているところだという。
 

 あの〈3.11〉大津波災害後の映像の、なかでもショッキングだったひとつに、コンクリート造りの建物屋上に押し上げられたまま取り残されてしまった観光船…というのがあったのを、覚えておられる方も少なくないだろう。
 まさにその建物(船はすでに撤去されている)が、いまは瓦礫撤去作業の道具保管場所になっていた。
 ボランティアたちはバスを下り、廃墟に立ち、靴を長靴に履き替えたり、作業の身支度をする。
 二日間とも、20数名が2班にわかれ、あらためて結束の自己紹介から始まる。
 リーダーによれば、われわれが行うのは〈瓦礫二次撤去〉になるという。
 つまり一度は、重機と人海による瓦礫撤去が一応すんでいるところなのだ。けれどもまだ充分とはいえないし、家や命を流された被災者の気もちを思えば、できるだけきれいに片づけてあげたい。そうして一ヶ所に丁寧な手が入ると、まわりが痛ましく見えてくる。
 できるだけ、順々に…とのことだった。だから瓦礫撤去というより〈跡地の整理・片付け〉といった方があたっている。
 現場になるお宅の跡地まで歩く道々、あたりの片付きぐあいを見ると、いろいろ思うことがあった。
 日本人の美徳か、気くばり細かくゆきとどいて、全体に白っぽく乾いているけれど、とにかくキレイなのだった。外国の人がこれを見たらなんというだろう。
 「この先どうなるかも知れない、おそらくこのままではすまされないだろうところに、ここまで手をかける必要があるだろうか」
 そんな感想もとうぜんありそうだ。
 ぼくはふと、いま住んでいる東京都下の住宅地の、近所の高齢者世帯の家の外まわりを想った。
 比べると、こっちの大槌のほうがまだしもキレイ…に片付いているかもしれない。
 無慙な瓦礫の山が無くなったのはよかったけれど、それにつづくはずの“復興”の影も形も見えない状況では、なまじ後片付けがキレイなだけに、廃墟がこのままに定着してしまいそうな寒々しさが感じられてならなかった。


 20人ほどで、一軒のお宅の敷地を片付けるのに、ほぼ一日仕事。
 シャベルや鍬などの道具を使い、細かいところは手袋の手で、瓦礫片はバケツに集め、ネコと呼ぶ一輪の手押し車で捨て場に運ぶ。
 コンクリート片のような重い物が混じることもあった。
 ここでもぼくは、若い女子大生たちの力強さをつよく印象づけられた。
 男に負けず劣らずどころか、男も顔負け。おじさんや爺っちゃたちより、とうぜんスタミナも勝っていた。
 この先にも仮設住宅があるのだろう、脇の道を行く人がある。ボランティアたちは「こんにちは」と声をあげ、あちらは無言で頭をさげる。
 一軒のお宅では、台所とは別のところにあった水場の片付けに手間取った。土間に、なにかの用むきに流しをこしらえたものだろうか。
 もう一軒は、お寺さんの傍のお宅。広い敷地からは細かい瓦礫片に混じって高価なものと思われる天然砥石が出て、仕出し屋さんでもあったろうかと想像されたりもした。ぼくはまたほかに、ゴルフボールの新品らしいのを1ダース近くも掘り出した。
 瓦礫片とは別の、それらの遺品と思しきものは1ヵ所にまとめて置きのこしてきた。
 持ち主の手に戻ればいいのだが……。
 二軒のお宅とも、災害以前の地図で住んでいた人の名は知れても、その人がいまどこにどうしておられるのかは(生死さえも…)わかっていない、という。
 地域の学び舎、赤浜小学校の校舎に人影なく、道路わきの外階段が飴細工みたいにグンニャリ曲がりくねったままだった…。 
 
 
 昼時になって、ようやく復旧なった町の防災無線から『ひょこりひょうたん島』のメロディーが流れる。音がちょっと傷んでいた。
 昼飯は、二日目がいまや名物といってもいい“おらが大槌復興食堂”へ。三日目は、リーダーたちがお好み焼きを買ってきてくれたのを、皆でバスで食べた。
 町民手づくり店舗の復興食堂は、沿岸各地に草の根的に広まったその先駆けのひとつといっていい。復興観光…などといっていいのかどうかワカラナイが、そんなふうの行きずりの人たちや、われわれのようなボランティア、さまざまな工事関係者などが立ち寄って昼時はたいへんな盛況ぶり。
 メニューでは「おらが丼」に人気があるようだった。
 二日間とも、午後は天気の予報がよくなく、途中で中止して引き揚げることもある旨、知らされていた。
 二日目は、午後1時すぎに通り雨があったが、それでもなんとか作業終了まではもった。夜、小雪
 三日目は、午後2時半ころからポツポツときた雨、空の雲も黒く不安げで、引き揚げることになった。


 〈二次撤去〉のすんだいくつかの庭に、“まごころネット”らしい心づくしの花壇ができていた。
 いくつかの跡地のコンクリート基礎の上には、端午の節句飾りだろう錆びた兜や金属製の置物などが、引き取り手を待って寂しく置かれてあった。
 ボランティアたちは、終了の点呼と無事の確認を受け、靴を履き替えバスに乗り込む。
 さすがに、どの顔にも疲労の色が滲んでいる。
 雨はまもなく本降りになった。


 いずれにしても〈大槌隊〉は帰途、大槌北小学校(被災後廃校)跡の校庭に住民たちの希望でできた“福幸きらり商店街”に立ち寄る。
 さまざまな種類の店舗が、とにもかくにも渾然一体に集まっており、“まごころネット”の休憩所もここにあった。
 ひとしきり、骨休めとそぞろ歩き。
 ぼくは魚屋さんで、その夜の晩酌用に刺身を買った。お手伝いの女の子が、レジ机でノートを広げていた。
 大槌で本降りになった雨が、沿岸部を離れて遠野に入る頃には、吹き降りの雪になっていた。野面がすでに真っ白、家々の屋根も真っ白。
 4月になったというのに、やれやれ…だが、遠野にはなぜか雪が似あうのもたしかなのだった。 
 一日の力仕事に疲れきった女子大生たちは、ふだんなら大はしゃぎだったろうのに、なにも知らずに白河夜船だった。

 
          *          *          *


 この3日間で、ぼくたちは今回のボランティア活動を切りあげた。
 明日は、核燃料リサイクルの六ヶ所村へ向かう。
 “遠野まごころネット”の宿泊施設にもう一泊させてもらって出かけるつもりでいたのだが、ちょっと離れたところで気もちの整理をしておきたかった。
 街はずれに“たかむろ水光園”http://www.tonotv.com/members/suikouen/という複合宿泊施設がある。
 “まごころネット”の活動に協力、昼の弁当やバス送迎サービス付き入浴を提供してくれている。ぼくらも入浴のお世話になって気心もしれており、泊めてもらうことにした。
 ボランティアの同志たちに心ばかりのエール、チョコレートとキャンディーをプレゼントして別れを告げた。
 宿で湯に浸かり、夕食に一杯やるとユラッ疲れがでた。
 これまでの巡礼疲れに、被災現場での慣れない〈ちから仕事〉疲れが加わっていた。ヤワなことではあるが……。


 4日ぶりの布団に寝転んで、ほろ酔いに切れ切れの想いが溢れた。
 “遠野まごころネット”の活動方針、そのモットーとするところは「よりそう」(寄り添う)、発行する壁新聞の名前にもなっている。
 巡礼をつづけるぼくは、はたして(被災地に…被災者に…)寄り添えているのだろうか。
 気もちは寄り添っていると思うのだが、たしかな手ごたえにはなっていない。
 ひとつには、やむをえないにせよ、被災者の実生活場面にはなお距離がある。
 できることをする…わりきれればいいのだが、気もちの置きどころが、むずかしい。
 ほかのボランティアの方々には、寄り添えている確信がもてているのだろうか……。
 国と被災自治体との間に、被災自治体同士の間に、行政役所とボランティア組織の間に、ボランティア組織や団体のメンバーの間に、さらにはボランティアと被災者たちとの間に、もどかしいまでの想いのすれちがい、位相のチガイといったものが拭いきれない。
 こまごまとした瑣事〔さじ〕というのではない、個々それぞれの事情にまで想い及ぼうというんじゃないが、笑顔のあとの仮設の夜の(見放されてるのかも…置いてけぼりかも…)と迫りくる寂寥感だけは、せめてなんとか遠ざけてあげられないものだろうか。
 経験した〈瓦礫二次撤去〉というのが、なにかのオマジナイみたいに心もとない、医療廃棄物の注射針みたいに思える。
 事実、(一次の)瓦礫撤去後すぐになんらかの復興の動きがあれば、〈二次〉など要らないことなのだ。時間軸の決定的なズレがある。
 数が激減したなどといわれながらも、(ほっとけない)気もちにかられてやってくるボランティアたちのために、〈仕事をつくらねばならない〉事情も見えている。
 一人一人が気づいていながら(まぁいいか…)、ニッポン人の美徳の我慢強さで、ひたすら黙して耐えている。
 合言葉のように唱えられてきた〈絆〉って、でも、ほんとのところなんだろう。

 
 まとまらない考えを追っているうちに、鋭利な刃物の刺すような不意の睡魔に襲われた。夢も見ない、奈落の眠りだった。
 夜半にふと、そんな奈落の底からの大きめの揺れを感じた。後で、福島が震源の余震と知れた。
 窓の障子を細く開けて見たら、いったんはやんだ雪がまたちらちらと舞ってきていた。


 *4月26日、小沢一郎民主党代表に無罪判決があった。政治資金規正法違反罪で、強制起訴された事件の裁判である。小沢の岩手4区は隣りの選挙区なので、関係ないといえばそれまでだが、この辺り被災地の人々のあいだでは小沢の「お」の字もなかった。中央とでは、関心のほどにも大きな違いがある。