どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

一年後の被災地巡礼(5)   −大船渡線・木造仮設住宅・遠野まごころネット−





 3月29日。
 朝のフェリーで気仙沼に戻り、陸前高田に行く。
 昨年4月、最初の巡礼のときから、ここ陸前高田(市)と大槌(町)は、コトバもない愕然と茫然の渦中だった。肉を焼かれ刻みつけられたかのごとき強烈な烙印は、いまも心に消えず燻りつづける。それで離れることができないままに、沿岸部ばかりを巡り巡ってきた。
 このたびは、視点を変えて高みに立ち、陸前高田の地勢を確かめておきたい。
 地図を見ると、海岸から内陸に向かう国道340号(高田街道)の東西に、標高500メートルばかりの山地が連なり、谷間というほど深くはないものの山峡の平地は多くない。つまり平地は広田湾沿いに限られ弧を描いている。“奇跡の松”で知られた高田松原の背後、丘陵地帯に氷上神社の記載があったのを頼りに上がってみた。神様は上に坐〔ましま〕す、神社は高み在〔おわしま〕す。
 ゆるやかな坂の中ほどに小学校があり、海からは2キロほどだろうか、ここまでは津波が来ていなかった。が、春休み中の子どもたちが遊ぶ校庭の下、一段低いグラウンドでは中学生がサッカーの練習をしている、傍の用具納屋やフェンスには津波の痕が生々しく残っていた。海は遠く、穏やかに光って見えている。
 復興の街づくりは、この高さの丘陵地に〈巴型〉に構築されることになるのだろう。
 海辺の、ふだんはとても魅惑的な平地を、漁と船舶の業務関連と、あとは思いきった遊休地化ができるかどうか…にかかっている気がする。
 行政の覚悟と、住民の理解と、国のバックアップにかかってもいる。
 なぜ国は、大震災・大津波復興費用にかぎる消費税増税をしないのだろう。これなら国民はのれる。それで国力に勢いをつけ、政府に信頼されるようにれば、先の見通しがたち、ひいては財政再建にも柔軟に向かっていけるだろう。順序がちがう、ぜんぜん民の心がわかっちゃいない。


 一ノ関から山越えの大船渡線気仙沼から先、盛駅(大船渡市)までのレールがもじどおりの壊滅状態、いまも復旧の目処がたっていない。
 何度もいうようだけれど、ぼくは鉄道が好きだし、レールの重さも信頼感もよく知っている。しかし、そのぼくが、こんどの大津波による瀕死の傷痕には声もなかった。それこそ、これ見よがしの飴細工みたいにグンニャリひん曲げられ、捩じ切られたレールには枕木も路盤もない、ただ鎮魂の黙祷あるのみだった。
 ぼくは、国道45号から県道に岐れて広田半島へ、大船渡線の見えない線路に沿って行った。風景ただ荒涼。
 小友〔おとも〕の駅も流され、荒蕪の跡に表札(駅名標)と待合室(粗末なベンチ)と応接間の基礎(壊れたホームと錆びたレール)だけが残されていた。
 大津波は、太平洋側(東)の小湾からと広田湾側(西)との両方から半島を挟撃。はじめに太平洋側から約3メートルの、つぎに広田湾側から約10メートルの津波が襲いかかり、ちょうど小友のあたりで双方の流れがぶつかって半島を分断したという。
 「ドーンと凄い轟音がして、大きな波飛沫が打ち上がって……」
 土地人たちの脳裡にはいまも、そのときの恐怖が生々しい。
 そうして、そのような被害は、かつて明治三陸地震津波(1896年)のときにもあったといわれる。
 瓦礫の原と化した低い路線跡に立つと、ここに再びトロッコ以上のレールを敷きたいとは思えない。大船渡線に復活があるとすれば、竹駒駅あたりから先は国道45号より山裾側を、大船渡まで抜けるしかないのではないか……。
 大船渡駅、被災の跡を確認。のこったホームやレールの存在感は、港の引込線そのまま。やはり、少なくとも旅客ホームは高台に移転すべきだと思われた。


 大船渡湾にそそぐ盛川に沿って国道107号(盛街道)を遡る。
 併行する線路を貨物列車が行く。岩手開発鉄道は昨年11月に復旧、石灰石などを運ぶ貨物専用のレールとはいえ、頼もしい車輪のリズムは心地よく谷川にこだまする。
 白石峠を越えて山間の住田〔すみた〕町。といわれても、とっかかりの掴めない方が多かろう。
 JR釜石線(花巻−釜石90.2Km)が遠野を経て、北上山地越えにかかる山中に上有住〔かみありす〕という駅があり、ぼくはその響きとイメージのよさで大好きだったのだが、いまのいままで、このアリスが住田町にあるとは知らなかった。ちなみに町名の〈住田〉は、有住村と世田米村が合併して町になったとき、それぞれの村名から〈住〉と〈田〉の一字ずつをとったもの。
 その住田町をざっと紹介すれば、岩手県北上山地南部あって、盛岡から約90キロの距離。まわりは大船渡、陸前高田、一ノ関、奥州、遠野、釜石の各市に隣り合っている。冬は太平洋気候の影響で暖かく、夏は内陸性気候の涼しさにも恵まれるが、やはり住民の高齢化・過疎化が進む町は、豊富な森林資源による林業(木材加工)の町づくりを目指している。
 …などというより、あの宮沢賢治がこよなく愛したイーハトーブ風景“種山ヶ原”のある町、といったほうがはやい。『銀河鉄道の夜』や『風の叉三郎』の題材にもなった種山ヶ原、標高870メートル余のなだらかな高原は町の西端にある。
 …さてそこで、ぼくがしたいのは、この町のちょっといい話。
 木材加工の町住田が町の木〈杉〉材を生かし、木造の仮設住宅を提供して被災者支援にあたったニュースは、〈3.11〉震災大津波後の、地味だがじわりと温もりのある話題だった。
 緊急の救出活動が一段落、避難所ができ、仮設住宅の建設が急がれたとき、じぶんでも木工を手がけるぼくは、すぐに(国産材の利用)を想ったけれども、急の間にあわなかった。林業地に個々支援の動きは見られたし、草の根ボランティア的な木材関係者の活動もあったが、長びく不況で眠りについてしまったニッポンの林業はついに眠ったままだった。
 そんななかで、山間の木材加工の町住田の健闘が光った。被災地東北の沿岸部からはやや離れ、町自体にさほどの被害はなかったこと、仮設住宅にも即応用できる木造プレハブ造りのノーハウがあったことなど、条件が揃ったことも味方したとはいえ、みごたな決断と素早さであった。
 すぐにも訪れたかったのだが、ほかにもっと急かれる事情が多々あったりして、つい一年後に伸びてしまった。
 もちろん、仮設住宅には個人の生活がある。報道の立場にはないから、おいそれと訪問もできない。モデルルームみたいなのがあるわけでもない。
 「図面ならあります」
 町役場の担当の方の好意で、設計図のコピーをいただく。
 図面を見ると、建築(床)面積は9坪で標準仕様。方形造りの、床・壁・天井のすべてに30mm厚の杉板が使われている。これは、ぼくの工房の造りと同じだからよく判るのだが、木の香もよく、とてもやさしい暖かみがある。冬の寒さにストーブ暖房は必要だけれども、もともとの木にかこまれた温もりのせいか効率はすこぶるいい。部屋の間仕切りに、ドアでなくアコーディオンカーテンを採用、開ければワンルーム風になるのも開放的で気が利いている。
 住田町の木造仮設住宅は町中や国道沿い、交通の便もよさそうな3ヶ所の団地に93戸。団地の入り口には、木彫の熊やフクロウが出迎える。
 見るからに冷え冷えとして(そのくせ夏は熱気が籠もって暑苦しい)弧絶感のつよい新建材プレハブの仮設住宅に比べ、うるおいがあって親近感もわく。屋根のソーラーシステム(給湯)にも感心した。
 折よく、草花の世話に出て来られた奥さん(陸前高田の海辺の方)に住まいの感想を尋ねると、
 「えぇ、おかげさまで、いいところに入れて好かったです」
 にっこりほほ笑む。最初こそ早くわが家に帰りたいと思っていたそうだけれども、
 「近ごろはちょっと、考えがかわってきましたね」とおっしゃる。
 「なんかこう、暖かくっていいんですよね、狭いですけど、主人も子どもも気に入っちゃって…」


 このたびの大災害処置にあたって、さまざまな課題が浮かび上がっている。仮設住宅の在り方も、その重要なひとつ。
 火山列島にあるニッポンは“常在臨災”いうまでもなく、けっして「忘れたころにやってくる」ような悠長なものでもない。
 災害後の復興景気、それはそれとして、手のうてるもの準備できることを、惜しめばきっと臍を噛む、のも知れている。
 仮設住宅については、林業再生もあわせた国の施策として、木造仮設住宅の材料備蓄と施工の方法を、全国規模で展開しておくべきだろうと思う。


 住田町からは国道340号(世田米街道)で北上山地を抜け、北隣の遠野の里へ。
 “遠野まごころネット”の活動拠点、遠野市浄化センターを目指す。
 明日からは3日間、まごころネットの宿泊所に合宿して、ボランティア活動に参加する。
 夜分、消灯の22時すぎに余震があった。
 寝袋の上半身を起こし、立ちあがりかけたところで中軽度の揺れはおさまったが、被災地での地震は怖さが違った。
 仮設住宅の被災者たちの夜を想った。