どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

水上バス“いちにちゆらり旅”   −岩淵水門・ロックゲート・両国国技館−





 テテン、テレテレ、テテン、テンテン……
 国技館前の櫓から鳴りわたる〈ふれ太鼓〉に迎えられて、朝の両国。
 サツキ晴れの乾いた空気に、乾いたバチさばき、乾いた太鼓に軽く鯔背〔いなせ〕に撥ねかえる音。
 その日5月17日は、大相撲五月場所の十二日目だった。ちょうど8時半ころからは、もう序ノ口の取組が始まっている。
 隅田川の畔〔ほとり〕水上バスのりば。

◆両国発9時“いちにちゆらり旅”

 このコースは春4月から秋10月までの木曜日、月に1〜2度の不定期運航になっている。
 隅田川下りの船には幾度か乗っているが、東京都公園協会が運営する〈東京水辺ライン〉の最長コースを、ちょと試してみたくなった。
 ひとつには、首都直下地震があればいちばんにコワイ、隅田川・荒川界隈のいわゆる江東デルタ地帯を、この際しっかりと心得ておきたかった……。


 両国をスタートして隅田川を上流へと遡り、荒川に出てこんどは川下り、東京湾岸の葛西臨海公園お台場海浜公園などに寄り、また隅田川に戻って両国までが、じつに5時間30分。なんとも気の長いハナシで、じつをいえば(吾ながらモノ好きな…)気さえしたくらいなのに、のりば窓口には予約客の列ができたのにはビックリだった。
 ともあれスタートから30人ほどが乗船し、なかには中国や韓国からの客人も混じる。


 最初にくぐるのが蔵前橋。
 橋の黄色は米蔵(蔵前の名の由来)にちなむ稲穂をイメージしたものとかで、この橋の欄干にはお相撲さんや屋形船がデザインされているのだが、船は橋の桁下ぎりぎりにくぐり抜けていくから、キャビンからは見えない。
 つづいて青の厩橋
 緑の駒形橋はライトアップ橋。夜の出番を待つ屋形船がとろ〜り微睡〔まどろ〕んでいる。
 船の左岸(隅田川の右岸)に浅草が近づいて、これもライトアップの赤い吾妻橋
 かつては、この吾妻橋界隈から下流隅田川を「大川」と呼び、流れの右岸(台東区中央区側)の浅草・蔵前・柳橋日本橋・浜町、現在の新大橋あたりまでを「大川端」ともいった。が、それもいまは落語・芝居や時代小説の世界、川端の堤はいまやリバーサイド「隅田川テラス」だ。
 まもなく左岸に…。

◆人だかりの浅草(二天門)のりば     

 水上バスいちばんの賑わいどころで15〜16人の乗客が加わったが、それでも吾妻橋上などから見送る見物衆の方がさらに多かった。
 のりばが実際に近いのは雷門で、二天門は奥の浅草寺本堂東側、浅草神社の鳥居に向かって右手にある。
 (新しい二天門のりばは平成23年度、東武伊勢崎線鉄橋のすぐ上流にできる予定)
 <二天>は門の左右を守る増長天持国天のこと。重要文化財の本瓦葺、切妻造り木造朱塗り八脚門は、2010(平成20)年に創建当初のままに改築されたばかりだ。
 江戸夏祭りの始まりを告げる浅草神社の“三社祭”、正式にはこの17日宵の神輿御神霊入れから。そして「ソイヤ、ソイヤ」の勇み声ひびき渡る神輿渡御は19・20日のことになる。
 水上バスは客の乗降をすませて先へ。


 隅田川の水上散歩は数々ある橋巡りでもあり、これらの橋が両岸のビル群から空間の自由を解き放つビューポイントにもなっている。
 この22日に開業を迎える東京スカイツリーは、駒形橋あたりから橋ごとに趣きをかえつつ白鬚橋あたりまでが見どころ。
 平べったい水上バスの屋上、展望デッキが解放され、乗客こぞって川風と陽光を浴びにでる。
 首都高速6号向島線の下に、江戸の掘割(運河)北十間川を分ける源森川水門が見える。この辺りで河口から7キロ。
 言問橋〔ことといばし〕のあたり、左右の岸は緑の草原きれいな隅田公園で、ことにも「春のうららの…」桜の花見ごろ風情はほろ酔い、こたえられない。
 橋の下には浮桟橋式の通路が揺れている。


 火事と喧嘩は“江戸の華”などといい、ドーンと一点豪華の派手好み、花火も江戸っ子の心意気にふさわしい。
 スカイツリー人気もあって盛り上がり急騰しそうな今年の隅田川花火大会は7月28日(土)19時05分から。2万発が江都の夜空を彩り、屋形船もどっとくりだす。
 ライトアップも一段と冴えるオレンジ色の桜橋が近づく。
 この桜橋と言問橋の間が花火大会の第一会場、第二会場が駒形橋と厩橋の間になる。

◆X字プロムナードの桜橋     

 1985(昭和60)年にできたこの橋は、隅田川唯一の歩行者専用、そぞろ歩きの愉しい橋。名前に“花見橋”のこころ読みとれる粋な園路だ。
 〈クローバー橋〉というのだそうだが、X字の股から陽ざしを浴びて、のりばに着く。
 対岸は墨田区、花街風情がのこる向島


   名にしをはば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと
 ふと在原業平の歌を想いだす川面に、しかし、赤っぽい長い嘴と黒い背の、ミヤコドリらしい姿は見られない。もっとも…秋から冬の鳥というから、いまは季節ちがいでもあるのだろう。
 やっぱり季節はずれなのか、ユリカモメらしい姿も見えない。
 カモメも少ないのは、もう海(東京湾)からは遠いせいだろうか。ミヤコドリやユリカモメにくらべると、ずっと目つきの鋭いカモメには猛禽の面影さえある。その様をぼくはむかし「トウゾクカモメ」と呼んで、仇名なんぞ付けてやったつもりで得意になっていたら、あとでそういう名の別種の鳥がちゃんといることを知り、憮然となった覚えがある。口惜しまぎれに思うのだが、トウゾクカモメの名は、カモメ族全体の呼称としてこそふさわしいのではないだろうか。
 この辺りでは、鵜を多く見かける。
 ぼくは鳥類の見分けは苦手なので、カワウかウミウかはわからない。カワウは習性として樹上に営巣し集団生活をするというが、隅田川にはそんな彼らにお似合いの森や林らしいものは見られず、また集団というほどの数でもないけれど…どうなんだろう。どっか離れたところから出張ってでもくるのだろうか。


 ライトアップ橋、最上流の白鬚橋。
 そのちょいと手前、台東区側の岸には路上生活者のブルーシート小屋が、いやに際だって見える。
 ナゼか…考えて見たら、近頃はずいぶん立派なものになっているのに気がついた。大きいし、しっかりできてもいる。入口に開き戸があったりして、とても路上生活者の住まいとは思えない。このあと荒川の方では、7〜8人用かと思われるレジャー・キャンプ用テント張りにお目にかかることにもなって、ぼくは呆気にとられてしまった。ぜんぜん貧しくなんか見えない。世の中よくなっているのがワカルのだった。
 橋のすぐ上流に、岸に切れ込んだ汐入りみたいなのができていて、手入れもされている。聞けば「ワンド」だという。なんのこっちゃと思ったら「湾処」と書いて〈入江〉のことだった。カニやエビ、小魚が棲み、それを餌にする鷺や鵜もやってくるそうな。
 吾妻橋より上流のテラスには、小さな干潟にヨシ(葦)原も作られている。潮位が高いときには水が流入する仕組みになっていて、水質を浄化し、水生生物たちを育て、河川環境を改善していく趣旨らしい。
 とにもかくにも見飽きない風景が展開して、水上散歩を堪能させてくれる。     
 そして、隅田川もここら辺りからは〈郊外〉になるようだ。
 下流〈繁華街〉の賑わいもいいが、キラッと郊外の風光もいい。
 しかし、堤防はどうなんだろう。
 リバーサイド再開発で整備された高層住宅群の、足もとから繋がる連携構想だったろう現在の堤防は、緩い傾斜がじつにここちよく、水際のテラスへとつづく。そのまま園地といっていい傾斜のほぼ中ほど、川筋のところどころに、旧防潮堤の壁の一部が保存され残っている。旧堤防は、その被害甚大で知られた伊勢湾台風(昭和34年)クラスの高潮を防ぐ目的で造られたものだから、いかにも応急の防護壁らしく、無粋だし心許ない。
 現代尖端技術に裏付けられたものだろういまの堤防は、なかなか気が利いていてデザインもいい。堤防の背後に地盤を盛り上げて繋がる“スーパー堤防”とやらの、スーパーの拠りどころは知らないけれども、まぁこれも最新のデータから想定に想定を重ねたものだとは思う。でも…、だが…、しかし…。
 あの〈3.11〉東日本太平洋沖地震の、大津波被害のあれこれをつぶさに見てきた目には、なぜか蜃気楼のようで確固たる現実感にはとぼしい。
 テラスの水際、川波洗う護岸には、老朽のひび割れや欠損も目だつのだ。
 一ヶ所が崩れたら……それから先のことは考えたくもない。
 

 この水上バスの、のりば(発着場)も正式には〈防災船着場〉。ほかの船着場もふくめて災害時の緊急避難と物資輸送用に想定されている、という。
 これも現実には、どれだけ頼りなるのだろうか。
 いずれにしても周辺にお住まいの方々は、ぜひにも見学しておくべきだと思う。
 「知ってどうなるものでもない」かも知れないが、「知らなきゃハナシにもならん」ではないか。
 ……そのせいか、どうか。
 この“いちにちゆらり旅”にもかなりの人気があるらしく、140人の定員いっぱいになることも少なくないのだという。
 添乗の係の方にうかがうと、かつては休日運航だったそうで、基本どこでも乗り降り自由のバスだから「いい季節には混んでねぇ」、ときにはお年寄りの席がとれなかったり。そんな高齢客層からつよい要望があって、いまのような運航になったのだそうだ。
 シルバーパス(高齢者乗合バス無料サービス)は適用されないというのに、この人気はたいしたもの。
 ちなみに運賃は、両国から両国までのグルリ一周で3,000円なのだ。


 青いカーブを画く水神大橋。 
 その手前に「10Km」と大書した看板が見える。河口の東京湾から10キロ入ったことを示す距離標だ。
 橋の上流で、隅田川は左へ大きく蛇行。
 流入する旧綾瀬川を行けば荒川は近い。水上バスの“江戸東京ぶらり旅”コースは、ここを通る。
 旧綾瀬川の綾瀬橋ぎわには造船所があって、なぜかウレシクなってしまうのは、風景に町工場みたいな親密さがあるからだろう。
 曲流する隅田川の左岸(川の右岸)にはヨシ原のグリーンベルト、大きな園地の開けた背後にはリバーパークの高層住宅群。なるほど、これが人気のウォーターフロントか。うん、わるくない。

◆『奥の細道』旅立ちの千住

 千住汐入大橋をくぐって、千住のりばは足立区になる。
 日比谷線の橋、つくばエクスプレスの橋、常磐線の橋をまとめてくぐって、日光街道(国道4号)の千住大橋
   東海道品川宿
   中山道−板橋宿
   奥州(日光)街道−千住宿
   甲州街道内藤新宿
 いわゆる“江戸四宿”のなかでも、品川宿に次ぐ賑わいであったといわれる千住宿
 堤の上を足早にゆく旅人。小説やら映画やらで、なにしろつよく印象づけられている風景は、さらに遡ると松尾芭蕉へと辿りつく。『奥の細道』へと旅立つ折りに、見送りの門弟たちと別れたのがこの千住の宿。
   行く春や 鳥啼魚の目は泪
 この惜別の句に詠まれたのは、ウルメ(イワシ)であったろう。
 ぼくらガキの頃までは、隅田川の水はいまなんかとは比べものにならないほどきれいだった。東京湾は素潜りのできる海だったし、“江戸前”海の幸の宝庫だった。そのころは東海道川崎宿の外れあたりに住んでいた家の方にも、浜から小型のトラックでイワシを売りにきた、バケツ一杯いくらで。
 「しこいわしこいっ」の売り声が、いまでも耳にのこっている。
 ただし、水上から眺めるかぎりの現在の千住には、これらの情景にひたる縁よすがもない。


 京成本線の橋をくぐって、隅田川はまた、こんどは右へと曲流する。
 治水にはご苦労があるのだろうけれど、船旅には変化があっていい。
 尾竹橋、日暮里・舎人ライナー橋と尾久橋をくぐると、頭の中の東京マップで山手線と京浜東北線が分岐する。

荒川遊園そして都電荒川線     

 小台橋の先、左岸に観覧車の円弧が見えて荒川遊園のりば。
 ぼくは荒川遊園の名だけ知っていた、都電荒川線に駅があったから。路面電車の都電がまだ都心部を走っていた頃は、ぼくら京浜筋の者にとって荒川線は片田舎の感があった。
 早稲田からの荒川線電車は、王子で隅田川のほとりに近づき、川沿いに下って日光街道三ノ輪橋が終点。
 長じて都電の生き残りがこの荒川線だけになると、ノスタルジーにかられ、わざわざ乗りに行ったりもしたものだったが、青春時代に幼児っぽい遊園地は縁遠かった。
 浅草の花屋敷を、もっと緑いっぱいの公園にもってきたようなものと思っていたが、都区内唯一の公営遊園地とは知らなかった。
 ここでも数人の乗客があり、岸の上から手を振る老夫人もあったが、その手に孫の姿はなかった。


 荒川遊園をすぎると、左手は北区。
 隅田川は、もう一度おおきく右に曲がるところで石神井川を合流、首都高速中央環状線を右手に仰ぎ見るようにして豊島橋。
 地図で見るとこの辺りも、荒川との間ほんのひと跨ぎ。河川の氾濫が怖いようだ。
 こんどは左に折れて新豊橋、新田橋。

 

◆北区に神谷のりば、足立区に小豆沢〔あずさわ〕のりば

 新神谷橋の手前に、神谷のりば。赤羽の駅に近い。
 ぼくは電車通学の中学生だった頃、京浜東北線の網棚に弁当を入れたバッグをしばしば置き忘れては、後で受け取りに行ったことを想い出す。
 遠いときは大宮駅まで、近いときで赤羽駅まで、いくたび出張ったことだろう。
 下車してすぐにシマッタ…気づくのだけれども、学校に遅れるからすぐには追っかけて行けない。遺失物係の駅員さんに届けだけしておいて、その日の昼飯はパンでも齧って済ますことになる。一度なんかは赤羽駅の係のおじさんがとても機転の利くおもしろい方で、電話口で中身を尋ねるから、ぼくが「弁当です」と答えると「じゃ見つかったらそれ…食べちゃってもいいかい」。呆気にとられたぼくは「はぁ、どうぞ」としかいえない。放課後、受け取りに行ったら「ごちそうさま、美味しかったよ、お母さんによろしく」と、きれいに洗った弁当箱が返ってきたっけ…。
 さきほどの荒川遊園あたりには岸に段差が見られたが、ここ神谷あたりはほぼベターッという感じに平らだった。
 かわりに対岸の赤羽桜堤緑地には、絵に描いたような堤の花道。お散歩の園児らが夢中になって手を振る姿が愛らしい。
 

 新神谷橋をくぐってしばらく進むと、前方の水面が二股に岐れて岩淵水門が見えてくる。荒川との分岐点で、ここまで遡ってきた隅田川はここまで、これより上流は新河岸川
 水上バスは水門を通って荒川に出るのだが、いったん新河岸川を小豆沢のりばまで行く。これはどうやら〈東京水辺ライン〉沿川〔・・〕の各区には、かならず一つは〈のりば〉を設けようということのようだ。
 小豆沢は埼玉県(和光市)境の板橋区
 船は志茂橋、岩淵橋、国道122号の新荒川大橋、浮間橋、そしてJR京浜東北・宇都宮・高崎線埼京線、二つの鉄道橋をくぐる。
 Uターンして戻る、ここからは十指にあまる人が乗った。ナルホド…そういうことか。
 河岸段丘の段差おおきく緑も豊かな、ここらはもうカンペキな東京の郊外だ。
 新河岸川は、遡ればやがて川越にいたる。

 

隅田川から荒川へ…岩淵水門     

 「川口」とか「川崎」とか、地勢・地境のすぐれて特長的だからだろうか、衆目を浴びる。
 「山口」とか「山崎」とかより、クッキリハッキリだからか。出入口ということなら高速道路のインターチェンジなんかも面白いのだけれど、やっぱり水門のほうに魅かれるのは、さすが流れの「流麗」さによるのだと思う。
 岩淵水門に近づくにつれ、船客のあいだに興奮の細波が広がっていく。
 現在つかわれている新水門は、10メートル幅のゲート3門の彩色から通称「青水門」。
 おなじような形には見覚えがあって、諫早湾干拓有明海との仕切りに造られた潮受け堤防、俗に「ギロチン」と呼ばれたものだ。この、少なくとも海の側から見ればダメージの大きな水門は、ぼくも現地に干潟の死滅を目撃している。
 けれども、ここ岩淵の水門には少しもマイナス・イメージがないのは、規模が小さいからだろうか…。ぼくは(風景には本質が透けてくる)と思っている。
 1982(昭和57)年に完成した水門は、3門あわせて1500トンの水圧に耐えるといわれても実感のしようもなく、〈3.11〉の大津波で壊滅した沿岸各地の防潮堤・水門を見てきた目には、大自然の驚異を前にしては(けっして絶対はありえない)ことだけがハッキリと見えている。
 水門をくぐると、風がかわった。穏やかな光と水と緑は、水郷の趣きだった。
 ふだんは水門を開けて荒川上流からの水を隅田川に流し、増水時には水門を閉じて隅田川の氾濫を防ぐ。ゲートの閉鎖には動力で約45分、手動ハンドルではおよそ1カ月かかる計算になるという。
 ともあれ、東京湾から23.5キロの隅田川はこの岩淵水門まで。
 水門公園の奥にちょっと引っ込んだ恰好で、いまは役目を終え建築遺産になっている旧岩淵水門(赤水門)の上部が望めた。


 こまかい経緯をはぶいて簡潔にいえば、いまの「隅田川」はむかし「荒川」だった。その後、氾濫を防ぐため「荒川放水路」が掘削されてから、「荒川」が「隅田川」に、「荒川放水路」が「荒川」になった。
 したがって、いよいよコースの後半、荒川に入ると流れも直線的になる。しかも、さっきまでは上りだったのが、こんどは下りだ。
 “いちにちゆらり旅”のゆったり気分も、一転、川波けたててスピードがあがる。


 荒川に入ってすぐの左岸は川口市(埼玉県)だが、新芝川を合流して足立区へ。
 〈環七通り〉の鹿浜橋、五色桜大橋、江北橋。
 日暮里・舎人ライナーの橋とワンセットみたいになった扇大橋。右岸のほんの200メートルほど先は、さっき上ってきたばかりの隅田川、尾久橋になる。もちろん日暮里・舎人ライナー橋とのワンセットふうも変わらない。
 この辺り、首都高速中央環状線の高架上からは荒川両岸のグリーンベルトの眺めがいいところ。渋滞とか、せっつきドライバーとかなければ、口笛の似合うごきげんハイウェイだ。
 西新井橋の次が、国道4号の千住新橋。
 JR常磐線つくばエクスプレス東武伊勢崎線の鉄橋の向こうは葛飾区で、首都高速中央環状線と6号三郷線の小菅ジャンクション
 つづいて京成本線の橋と堀切橋をくぐれば、新荒川橋の手前が旧綾瀬川の隅田水門。さっき遡った隅田川から、水上バス“東京ぶらり旅”コースの船が通る水路だ。
 国道6号(水戸街道)の四ツ木橋、新四ツ木橋、京成押上線、木根川橋。
 荒川の堤のすぐ向こうを綾瀬川下流は中川放水路)が併流しているのだが、船体の平たくできた水上バスからは、時折ちらりと水の反映くらいしか見えない。
 首都高速中央環状線、すっきりとしたシルエットの葛飾ハープ橋(温気などで靄ることの多い日中よりライトアップされた夜景の方がいい)に迎えられて、ちょうど昼飯どき。
 船には軽食などの支度はなく(ビールも売っていない)、乗客は自前で用意の飲みものや弁当をひろげる。
 快調に川面を滑ってきた船がスピードをおとす。

◆平井のりばは葛飾あらかわ水辺公園     

 レクリエーションの人たちが散らばるなかに、乗客らしい姿はなくて、船は着岸することなく岸辺を離れる。こんなこともある。
 渋滞情報によく名前のでる平井大橋につづいて総武本線の鉄橋をくぐって、江戸川区
 荒川は、隅田川にくらべると流れが早く、そのせいか気のせいか、水もいくらかキレイに思える。
 国道14号京葉道路)の小松川橋・新小松川橋、首都高速7号小松川線の荒川大橋をくぐって、海が近くなったことを感じる。
 船堀橋は……子どもの頃、父に連れられて渡った。
 ある人を訪ねて、土手の上を歩いた。眩しい日盛りのなかを行ったのに、その人はあいにく留守でガッカリしたことを覚えている。
 その頃はまだなかった都営新宿線をくぐって…。

地盤沈下が生んだ…荒川ロックゲート     

 右岸の江東区側、緑の公園の先にごつい堰造りの構造物と信号が見えてくる。
 荒川ロックゲートは「閘門〔こうもん〕」といって、通船目的の水位調節装置(付き運河)のこと。道路信号と違って「黄色=注意」の必要がないから、文字どおり「ゴー・ストップ」の二色信号なわけだ。
 水位に差のある[A][B]二つの水面を結ぶため、間に二つの水門を設け、両水門間の「閘室」に船を入れて水位を上げ下げ、どちらからどちらへも行けるようにしたものだ。
 学校の地理でこれを習ったとき、土木のダイナミズムをもろに素肌に感じさせられたわけだが、脳の記憶の領域では別に、「こうもん」が「肛門」にピーンと通じるおかしさで忘れがたいものにもなったのだった。
 閘門運河といえば、壮大な太平洋とカリブ海とを結ぶパナマ運河が有名だし、地中海と紅海を結ぶエジプトのスエズ運河にもあるが、装置としてはおなじ機構のミニチュア版みたいなのが江戸情緒の下町にあるというのも、気の利いたからくり細工を見るようでおもしろい。
 荒川と岸内にとりのこされた格好の旧中川、最大の水位差3.1メートルを調節する水のエレベーター、荒川ロックゲートができたのは2005年10月。これによって、小名木川や十間川などの掘割を通じて隅田川との水路のつながりができた。
 阪神・淡路大震災クラスの地震には耐える設計とかで、地元などでは「震災時の救援物資輸送路に」と期待されているそうだけれども…さて???…どんなものだろう。
 それよりも利用法がとても庶民的なきまりで、月曜から土曜までの毎日8時45分から16時30分までの間、規定に合った船なら無料で通れる。通過に要する時間およそ20分。休日と年末年始はお休みだ。
 屋形船や荷足船〔にたりぶね〕、猪旡船〔ちょきぶね〕なんかが昔懐かしく、櫓音も涼しげに往き来する、そんなイベントが定期的に繰り広げられたら、さぞや粋なことだろう。
 もっとも“いちにちゆらり旅”ではゲートを通らない。歓声わくボールパーク(球場)の外周をただポクポク歩いているようなもので、(こんどは中を見に来なくちゃな)と思う。
 浦安に通じる葛西橋東京メトロ東西線
 清砂大橋の先で、側道みたいな流れの中川が合流してくる。
 川幅がグッと広がり、ひときわ高く聳え立つかに見える首都高速湾岸線の荒川河口橋、JR京葉線の鉄橋をくぐってワォーとばかりに東京湾
 右手は新木場、若洲の岸壁。


 風は…まぁいいのだけれど、船が蹴立てる波の色がイケナイ。薄茶色に濁った飛沫を、とても浴びる気にはなれない。海を覗きこめば、それこそ「醤油で煮詰めたような」という感じの、鉄錆色をおびた鈍い茶褐色。水深がどれくらいか知らないが、きっと通航する船のスクリューが海底の泥土を巻き上げているのだろう。
 それにしても胸のムカつく、食欲の失せる汚水色。
 隅田川にしても、荒川にしても、ぜんぜんこんなではなかったのに…と想うと、悔しいような騙されたような情けない気もちだった。


 水質が改善したと思わされたのは、あれはきっと湾の中心部あたり、もっと水深のあるところの話。沿岸部は、ずっとこのありさまだったのか。
 これが江戸前、かつては白魚〔しらうお〕の海かと、うたた呆然。
 もっともモノは考えようで、いまはいなくて幸いかもしれない、いまどき東京湾シラウオが獲れたら、はじめっから佃煮色してるに違いない。
 ナントカしないとイカン…なぁ。


 ともあれ、船は左へ。おおきく取舵をきって…水路に滑りこむ。

葛西臨海公園から東京ゲートブリッジ     

 水路のほぼ中ほどに、葛西臨海公園のりば。
 ここで恋人らしい若いカップルが下り、(いいアプローチを思いついたものだな…)と感心させられた。
 のりばには多くの船待ち客が見られたが、どうやら別コースの船がお望みらしく、この水上バス乗ってくる人はなかった。
 左側が、緑の原っぱに大観覧車が回る臨海公園。客船のメインマストを想わせる造形のなぎさ橋を渡って右側が、葛西海浜公園。開園面積あわせて81万平方メートルという広大な潮風の親水園地。都立公園の規模では、中川・江戸川水系の水元公園葛飾区)に次ぎ、江戸東京たてもの園のある小金井公園より大きい。
 ぼくは臨海公園の水族園が好きで行くが、いつも水槽やプール覗きでくたびれてしまい、ほかの施設はとんと知らずにいた。
 こんど水路の船上から見ると、海浜公園の人気はずっと少ないなかに、バードウォッチングやウォーキングに親しむ大人び落ち着いた姿に魅力があった。
 (よし、こんどはノルディック・ウォークを愉しみに来よう…)


 船は荒川河口を突っ切り、運河上に架かる若洲橋をくぐって、産業埠頭の集まる東京港内へ。
 水の色がいちだんと潮錆びてくる。
 港出入りの主要航路、東航路上に架かる2618メートルの“東京ゲートブリッジ”が斬新なフォルムを見せる。
 (鉄骨)トラスの造形が、なるほど向かい合った恐竜そっくりだった。
 上空をよぎる、羽田空港に着陸態勢の飛行機影とのマッチングもよく、下をくぐり抜けて行く船の見映えもよかった。
 中央防波堤内側埋立地を見送って、船は〈ベイエリア〉へ。

ベイエリア船の科学館お台場海浜公園     

 船が右へ面舵きって進むと、左岸(品川区)は国際コンテナターミナルのある大井埠頭。でかいクレーンが行儀よく並んでお客さんの到着を待っている。
 右岸(江東区)がお台場、いま流行りの“臨海副都心”になる。大井から海底にもぐった首都高速湾岸線がふたたび地上に出るところだ。
 船の科学館(お台場のここだけが品川区の飛び地になっている)のりばは、閑居していた。
 1974(昭和49)年にオープンしたときはパリッパリの臨海ニューフェース、人気もかなりのものだったが、いまはむかし…の退役軍人ふう。
 クイーンエリザベス2号をモチーフにしたという客船型の本館建物からして見るからに時代遅れだし、いまは展示も休んでしまっている。あれこれ模索はあるようだけれど、はっきりいって見とおしは明るくない。
 現在は、別館(入館無料)の南極観測船「宗谷」だけが公開されている。
 「宗谷」はその小柄な船体に、ぼくら少年時代の大きな大きな夢を乗せて南極に挑んだのだ。
 「宗谷」の進水は、戦後すぐ世代のぼくらよりほぼ一世代前の1938(昭和13)年。日本海軍(旧帝国海軍)の特務艦として活躍、戦績ものこして終戦後は、海上保安庁砕氷艦・巡視船を務めた。
 1956(昭和31)年、日本が国際地球観測年の南極観測に名乗りをあげたとき、この船が初代観測船に選ばれたのは、砕氷能力などの装備面よりも過酷な戦場で生きのこった〈強運〉が買われたものだったらしい。このときの第一次観測隊が、南極に昭和基地を築いた。このとき発行された記念切手、〈氷原上のペンギンの向こうに観測船宗谷〉の図柄とブルー&ホワイトのデザインはいまも忘れない。
 そうして、南極の氷海にわが「宗谷」が閉じ込められ、ソヴィエトの大型砕氷船に助けられたときの、あのなんとも奇妙で複雑な、喜びと悔しさが半々の昂奮と感情も忘れられない。
 以降1961(昭和36)年までの6回、「宗谷」は南極の氷海に挑んだ後、後継の「ふじ」に道をゆずった。
 1979(昭和54)年、船の科学館に動体展示されたときも大騒ぎだった。
 その当時、子ども心の記憶にある「宗谷」はこんなに小さくはなかった…と思うほどに、いま見るオレンジの船体はいっそかわいらしいくらいだ。
 この小柄な船が現在も船籍を保有し、必要があれば舫〔もやい〕を解いて航行できるというのだからスゴイ。
 しかし…実際には老朽の傷みがひどくて、修繕費用が嵩むばかりという。
 いずれ「宗谷」の寿命がきたとき、船の科学館も使命をおえることになるのだろう。ぼくは(それでいい)と思う。


 ここにはかつて、もうひとつのメモリアルシップがあった。
 1988(昭和63)年に終航した青函連絡船「羊蹄丸」。青森港の「八甲田丸」、函館港の「摩周丸」とともに青函航路の歴史を伝えてきた。
 この3隻の船に、ぼくはすべて乗っている。ぼくは、
   北帰行の人で
   北海道が好きで
   飛行機が苦手なのだ
 青函連絡船に乗ることが多かったのはとうぜんである。連絡船終航の前、最後に乗ったのも摩周丸だった。
 1996(平成8)年から始まった羊蹄丸の保存展示は、もっと続くのかと思っていたら2011(平成23)年9月で終わり、だからいまはもうない。案の定、年間3,000万円かかる維持費が負担しきれなくなったようで、愛媛県新居浜市に無償譲渡された。新居浜東港で一般公開のあと解体されるという。
 「羊蹄丸」についても、ぼくは(それでいい)と思う。
 ぼくは(保存するなら生きた形で…)と思っているから、乗り物なら(動かない形だけの保存など見たくない)見るに忍びない。じっさいにぼくは、保存展示されてからの青函連絡船では摩周丸に一度つきあいで見に行ったことがあるだけだ。
 金をかけるなら動かしてほしい、動けなくなった老兵は静かに消えて、それでこそいい。
 歴史的な保存はしっかりした動画で、資料とともにのこされれば、それでいいと思う。
 なんでも遺せというのは、わがままだし、思いあがりというものだろう。


 東京港航路に戻った船は、左舷に品川埠頭、行く手にレインボーブリッジを見て、お台場海浜公園へ。
 ここらはかつて貯木場だったところで、旧防波堤内が入江になっている。園地はさっき立ち寄ってきた船の科学館潮風公園とも隣接しており、台場公園がL字に囲い込む形で張り出す。
 特異なフォルムで目をひくフジテレビビルを中心に展開される、いま流行りのベイエリアには、やはり若いカップルの姿が目立つ。
 しかし……人工の浜辺にしろ磯辺にしろ、岸を洗う海の水が諄〔くど〕いようだが汚なすぎるので、ぼくなどはちょっと寒気を禁じえない。
 そんな環境だから遊泳や釣りは禁止でとうぜんだけれど、無料で解放される潮干狩りに心配はないのだろうか。
 行き帰りに海を見て、この汚れた水つづきの浜で潮干狩りする親子の姿を想うと、空模様さえ怪しくなってくるようだ。もちっとナントカしませんとね…。
 このお台場海浜公園のりばは、水上バスのバラエティ、便数ともに豊富なだけに、趣向毛色の違った“いちにちゆらり旅”に乗ってくる人はなかった。

◆潮入の名庭浜離宮、明石町・聖路加ガーデン前     

 レインボーブリッジをくぐり、左手に芝浦埠頭、水上バスのりばもある客船埠頭の日の出埠頭、高架線を走る“ゆりかもめ”、インターコンチネンタル東京ベイホテル、竹芝埠頭を見て、船は東京港の水路せばまるなかを、ふたたび隅田川へ。
 スカイツリーに首都展望塔主役の座をゆずった東京タワーが、高層ビル群の間から遠慮気味に顔をのぞかせる。ゴクロウサンでした。
 港区から中央区に入ってすぐ、左岸(川の右岸)にコンクリート壁が現れ、その先の水門へ船は滑りこむ。
 水門のなかは、水濠に囲まれたようなふんいきの緑色濃い浜離宮恩賜庭園。ぼくら青春時代しばしばお世話になったデートスポットで、そぞろ歩き、語りあうのにいいところだった。
 〈潮入り回遊式築山泉水庭園〉といえばそれだけで、手入れのゆきとどいた緑の木々、泉水や池、鴨場、茶屋、お花畑といった趣向のさまざまが思い浮かぶ。徳川将軍家の別邸浜御殿や宮内省管轄の離宮を経て、東京都に下賜された(恩賜)庭園といえば、格式のほども知れるというわけだ。
 すっかり汐留のビル群にとりかこまれたいまは、おおきな中庭の風情でもある。
 浜離宮のりばからは、緑の散策たのしむ人たち数人が乗った。


 “築地の魚河岸”中央卸売市場(時刻からしてすでに今日の仕事はお仕舞い)のいわば勝手口、船着きを見て勝鬨橋〔かちどきばし〕。古武士の風格ただよわせる鋼鉄橋、夜はライトアップされて渋く川面に浮かび上る。
 昔の渡河はいうまでもなく“渡し(舟)”。隅田川にもたくさんの渡し場があったなかに、日露戦争の旅順要塞陥落(戦勝)を祝ってできた勝鬨の渡しがあって、その後に架けられた橋に勝鬨の名がのこったわけだった。完成は1940(昭和15)年。
 その頃は隅田川を遡る大型船が多かったので、〈跳ね橋〉方式が採用されることになり、日本の国力と技術力を高揚する一大架橋になったという。
 全長500メートルのうち、中央の22メートルが左右に跳ね上がる。かつては都電もこの橋を通っていた。
 なにしろ銀座四丁目からくる晴海通りに架かっているから人車の数も多い、その通行を止めて1日に5回、橋を跳ね上げて船を通したというのだから、じつに豪儀なものだったろう。
 ……というのは、生まれたときにはもうできていたこの橋の、現に跳ね上がるさまをザンネンながらぼくは見ていない。なんどかのチャンスをフイにしながら、ナニいつでも見られる気でいたのだけれど……。
 それでぼくの頭には、ゴジラ映画かなにかだったと思う、跳ねあがった勝鬨橋から都電や車や人がドッと落下する、欲求不満の情景だけがのこっている。
 そうしてついに1970(昭和45)年を最後に開閉は絶え、機構もすべて停止されたいまはもう跳ね上がることもない。
 でも、これもそれでイイのではないか。
 この勝鬨橋と、これからくぐる清洲橋永代橋の3つが国の重要文化財だ。


 対岸に月島、前方に佃大橋が近づく明石町のりばの辺りが、河口から1キロの地点。
 明石町・聖路加病院界隈といえば、かつては下町にあって唯一といっていい欧風ムードのエリア、画学生や文学生の思索にふける姿が似あったものだった。
 パリのセーヌ河畔を想ってのことでもあったろうか…けれども、ぼくはあまりよく覚えていない…カブレなかったらしい、趣味じゃなかったようだ。
 現在は、仰ぎ見るツインタワー超高層ビル聖路加ガーデン”新風かおるなかにある。

越中島から浜町河岸、そして両国にゴール     

 ようやく流れる水の色が、さっきまで東京湾の汚水色とはちがってくる。キレイとまではいえないけれど、これは水の色といえる。なんだか、馬鹿みたいにホッとする。
 佃大橋をくぐり、八丁堀方面からの亀島川を合流し、中央大橋あたりからはまたスカイツリーが隠れ隠れに見えてくる。
 兜をイメージしたという主塔からの斜張鋼索ラインはフランスの設計。この中央大橋には、おそらく隅田川の架橋でいちばん金がかかっている。
 船は面舵をきって佃島の北端をまわり、いったん晴海運河へ。
 この辺りでは聖路加ガーデンと並ぶ摩天楼、大川端リバーシティー21を振り仰いで、相生橋の手前に越中島のりば。こちらの岸は江東区、むかしの深川地区になる。
 ここら両岸の園地も桜の名所だ。
 隅田川に戻って…。
 永代橋(青白くライトアップされる重文の橋)をくぐるときに、船の乗組員から「頭上に注意してください」と声がかかる。
 満ち潮どきなのだろう、なるほどかなりきわどい橋の桁下を、首を縮め「おぉー」と低い歓声とともにくぐり抜ける。ふだんは桁下4メートルほどだという。
 すぐ左手(川の右岸)からは日本橋川が合流、右手(川の左岸)の岸のテラスはパーゴラと刈り込み樹木の織りなす庭園風がいい。


 若緑の変哲もない隅田川大橋は、上を首都高速・9号深川線が通る。


 次にくぐるのが、隅田川の架橋のなかで美しさいちばんと讃えられる清洲橋(重文)。
 関東大震災被害からの復興事業として1928(昭和3)年に完成したものだ。
 ライン川(ドイツ)のケルンの吊橋をモデルにしたものといわれ、ワルツを想わせるリズミカルなラインが高潔感をあたえる。
 この橋のライトアップは、シルエットで魅せる。


 右(左岸)から小名木川を合流し、深川芭蕉庵のあったと思しき辺りで、お相撲さんの散歩姿を見かける。ここらのテラスも庭園風。
 新大橋もライトアップ橋。
 くぐって河口から4キロ付近に浜町公園。
 この公園も、関東大震災被害からの復興事業として隅田公園台東区墨田区)、錦糸公園墨田区)とともに計画されたもの。なかなかいい公園だが、しかし、この公園がこれから先に予測される大震災や大津波のときに、どれほど役に立つかはわからない。
 

 浜町のりばは、首都高速ジャンクションの両国大橋をくぐって、竪川合流口の水門を対岸に見る岸辺。
 料理屋裏手の板塀がちょいと粋だった。


 ピンクのラインがかわいい京葉道路国道14号)の両国橋をくぐると、江戸時代から舟遊びで知られた柳橋。右手(左岸)から神田川が合流してくる。
 この神田川の上流、御茶ノ水あたりでも、ぼくら学生時代の頃までは平べったい汚穢〔おわい〕船やごみ船が行くのが見られたものだった。
 ……が、かぐや姫の唄う『神田川』が一世を風靡してからは、(洗い髪の恋人の手の中で小さな石鹸カタカタ鳴った)淡い夕暮れのイメージに、すっかりとってかわられてしまったのを想いだす。


 河口から5キロの総武線鉄橋をくぐって、両国のりばに戻ってきたのは14時30分。5時間半の船旅、運賃3,000円はワリヤス。
 なお“いちにちゆらり旅”の船はこの先、途中から乗った人たちのため、もういっぺん小豆沢まで遡り、折り返して両国着17時50分(トータルは8時間50分)となる。


 乗客仲間の一人に頼まれ、相撲の決まり手模様が嵌め込まれたテラスの柵を背に、デジカメのシャッターを押して無事終了。

◆相撲観戦、そして、ちゃんこ鍋     

 船から下りて、ひと息ついて、ふと見ればすぐ目の前が両国国技館。両国は、むかしの本所。南の方が深川だった。
 最初にもいったとおり、この日(5月17日)が五月場所の12日目。優勝の行方が絞り込まれてくる頃。いまなら、うまいぐあいに十両の取り組みから見られる。
 ぼくは、栃若時代の少年期に一度、ずっと飛んで朝青竜の全盛時代に一度、都合二度しか本場所を観戦していない。かみさんは、まったくの初体験。
 「席があったら見て行こうか」
 なりゆきで、そうなるのは自然の流れだった。
 しかし、一階のいい席(高額の席)はすでに一杯。二階の椅子席は土俵が遠いが、席はまだまだのこっており、あとは値段と空席の相談だった。
 A席8,200円、ただし前の方の列のイイ席はみんな埋まっていた。
 B席4,900円、C席3,600円、どちらも空席ばかり。さぁ、どうする。A席ならいざ知らず、B席・C席にさほどの差異は認められない気がする。C席は二階席の最後列のみの、いってみれば土俵際。思いきるならコッチだろう、ということになった。
 ぼくは一階マス席A席という極上位置に陣取ったことがある(朝青竜の全盛時代のとき)けれども、あんな高額席でさえてんで狭かった。定員の4人みんなが坐っておさまってしまうと、それぞれの手荷物がわずかな隙間を埋め、もはや坐り直すことさえむずかしい。つまり、相撲見物とは意想外に窮屈なものなのだった……。
 予想した土俵までの距離、豆粒というほどではないにしてもやっぱり遠かったけれども、知ってるお相撲さんの顔ならなんとか見分けはつく、いいんじゃないのこれで。
 ビールとツマミ買い込んで陣取る、向う正面最上段席。グッと股を開き加減に踏ん張ると、歌舞伎の大向こう(客)にでもなったようないい気分。高所恐怖症もどこへやら、その気になって大向こうから、大きな声はりあげて声援してみた。じつに爽快であった。
 幕内の土俵入りも、横綱土俵入りも、かずかずの取組も、遠くから眺めるぶんよけいに熱気で潤みかげん、観衆のどよめきにも底響きがあった。
 この日、上位の取組の結果……
  10勝1敗で単独トップだった大関稀勢の里が、平幕の栃煌山に敗れて10勝2敗に後退
  7勝4敗と遅れをとっていた横綱白鵬は、大関琴奨菊に勝って8勝4敗と星の差2つ
  なお、両者のあいだの9勝3敗には、いずれも平幕の二人、栃煌山旭天鵬がつづく
 ……という状況だったのだが。
 3日後の20日千秋楽を終えてみれば、なんと栃煌山旭天鵬、平幕二人の決定戦があった末に優勝したのがモンゴル出身の旭天鵬。しかも、37歳8カ月での初優勝は大相撲記録更新というオマケまでついた。これを称して〈勝負は下駄をはくまでわからない〉という。


 打ち出し太鼓に送られて出た暮れなずむ両国の町。
 (ちゃんこで軽く一杯)の思いは皆おなじと見え、駅近くのちゃんこ料理店にはぞろぞろ人の波。
 なんとか『霧島』に腰を落ち着けたぼくたちの席にもこの夜、元大関霧島関(陸奥親方)が挨拶に顔を見せ、やんちゃ坊主が含羞〔はにか〕んだような笑顔は現役時代と変わらなかった。
 これも場所中ならではこと、やっぱり大相撲あっての両国だ。