どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

一年後の被災地巡礼(4)   −松島四大観・大川小学校・気仙沼大島−





 3月28日(水)。
 奥松島、月浜の朝は爽やかに気もちよく明けた。
 浜を散歩すると、背後の廃墟さえ和んで見えるほどだった。
 ただ人影がなさすぎる。仮設住宅の路地にも老爺の姿ひとつ、働き盛りの女たちは朝餉の支度か…と思ったけれど、でも、それらしい匂いも漂ってはこないのが訝しかった。
 しかし、詮索がましい事情など深く考えてみたところで仕方もない、宿に戻って朝餉の膳についた。
 きょうは気仙沼大島まで行く。


 もう時刻は九時ころなのに、松島四大観のひとつ“壮観”大高森はまだ眠ってでもいるように閑かだった。
 とにかく高みに上がって見たい、概観をつかんでおきたい。
 四大観のうち、ぼくは(北)富山の“麗観”と(西)扇谷の“幽観”は見ていたから、こんどの(東)大高森の“壮観”を加えると観光的には、(南)多聞山の“偉観”をのこすのみ。そうなるとふと思いがけなく四大観探勝を達成したいような気にもなってくる、これも征服欲のうちというのだろうか、人の心理というのはつくづく妙ちくりんで不思議なものだ。
 晴れて微風のせいもあり、「あぁ松島や松島や」の展望は壮観にちがいなく、へんな感動かもしれないが、あの大津波にも失われない景勝のありように、あらためて自然の力の巨きさ凄さを痛いほどに感じさせられる。けっこうなきつい登り、息せき切って上がってきてしばらくは、ハァハァ胸はずむばかりで声もない。
 ところが、感動に霞み加減の視野がようよう定まってくるにつれ、痛々しい被災の傷痕が汀線に沿って明らかになってくる。きのう通ってきた野蒜海岸などは、乱暴な手術の縫合痕みたいに目に疼いた。


 国道398号は女川町を経て、現在は石巻市雄勝町に入る。
 釜谷トンネルを抜け出ると、すぐ北上川。新北上大橋の畔には、あの悲劇の大川小学校。気紛れな天候までが雨模様にかわって、風景が涙ぐむ。
 大津波被災のモニュメントとして、手つかずのまま残されてある校舎は重くうな垂れ、手篤く飾られた慰霊の祭壇には訪れる人の姿がきょうも絶えない。
 もうすっかり“哀しみの聖地”なのだった。


 国道398号から45号へ。
 南三陸金華山国定公園の海岸線を辿り、そのまま陸中海岸国立公園へ。海景がいい。
 あえて周辺に注意の目を向けず走りすぎてしまえば、大津波以前のままとも思えてしまえそうに呑気な道がつづく。
 

 気仙沼港はどうやら修復がピッチを上げて進みつつあり、港に近い町筋には復興屋台村もできていた。
 しかし…やむをえないのだろうが、どこもおなじスタイルの“復興”ばかり、気仙沼あたりにはせめてひと味ちがう意気のほどを見せてほしかった…というのは酷だろうか。勝手をいって御免なさいだが、お役所ばかりではない頭の固さがちょっと気になる。
 海の領分の傷痕は、海の潮で癒される。陸地の領分は、陽光で癒されようとする。陥没で曖昧な境界におかれたままの低地だけが、いつまでもジクジクと治りにくい傷のようだった。
 フェリーには、少ないながら観光客の姿も見られた。
 ぼくは船が出るまでのひととき、港内の揺ら揺らする海面を見ていた。小さな貝類がびっしり付着した杭の間にカモメが浮かんで、小魚でも漁るのか、ときおり器用に首を突っ込む。仲間が一羽そばに来ると、ツイと動いて少し間をとる。ウミウがやってくると、さりげなくそっぽを向いてもっとキョリをおく。ウミウも素知らぬふうで、カモメよりもっと巧妙に素早く首を突っ込む。カモメとウミウとは争う様子もなく、たがいにそつなく領分をわけあっているように見えた。
 彼らには、津波の記憶は、怖れは、ないのだろうか。天翔ける羽根をえて、もはや忘れたか。
 いや…彼らが種の保存本能を失うことはないだろう。水鳥が溺れることもある、という。されば彼ら鳥たちのDNAには、遥かに遠い日々から連綿と刻まれ続けてきた<荒れ狂う海>の記憶が、彼らの嘴のように尖鋭にあり、こんどの大津波の記憶もかならず刻み加えられているはずで、無表情に見える彼らの目はきっと飢えと死の予感でいっぱい。
 知恵で食物連鎖の頂点にたった人間だけが、いつのまにか生物の枠からも自然の枠からも外れて、安危不感症になっちゃってるみたいだ。
 フェリーが静かに動きだすと、港の背後に屹立する崖の、教会の尖塔のある風景が人形劇の舞台かなにかのように夢心地、箱庭ふうだった。


 気仙沼大島まで25分ほどの短い船旅は、まだ冷たい海風をのぞけば安らかなものだった。
 浦ノ浜の港に近づくと被災の痕は歴然だったけれど、米軍をはじめとする救援・支援の力が大きかったことを感じさせる。片付き方が半端じゃない。
 さまざま課題はあるにせよ、復興に向けての前進はすでにはじまっている印象を受けた。
 いうまでもない、大津波の災害に<軽重はない>のだけれども、巡り見ていくと恢復の程度には明らかに差異がある。
 たとえば、知名度のある観光地には支援が早かったし、ボランティアの数も多かった。受け容れる側も接触にはなれていたから、ことがスムースに運んだ。地味な一次産業の地域には、ボランティアもなかなか入って行きづらかった。などなど……ほかにも要因はいろいろあげられよう。
 そもそもニッポンには、まだまだボランティアの土壌が薄かった。<3.11>が草の根ボランティアの覚醒元年、といってもいいくらいなのだ。
 それにしても、なにが、どう違っていたのだろう…。
 原発事故の原因・経過・結果、その詳細とは別に、被災地復旧・復興のすべてもきちんと検証しなければならない。


 島の東側、田中浜・小田〔こだ〕の浜も、浜そのものはすでにきれいに片付いて、いつでも海水浴客を迎えられそうだった。あとは施設関係の復旧を待つばかり、という風情だった。
 島の南端、春まだ浅い竜舞崎〔たつまいざき〕には、さすがに人気なく、海からの風に松林がざわざわ鳴っていた。
 海蝕崖の下の方から吹き上げてくる怒涛の潮風、頬にうけて立つと、沖あいの深い碧のせいか、、遥々と遠い海路がなぜか親しく感じられた。
 大津波で陸地にのこされた瓦礫がどうやら片付いてくると、(波に運ばれ海に持ち去られた瓦礫はどうしたろう…)はっと迷子に気づく思いだ。
 あのときの影像から推しはかるまでもなく、漂流物となった厖大な瓦礫の群集が、ニッポンという島の岸を離れ、北太平洋海流に乗って流浪して行った。ほぼ一年をかけてその先陣が北アメリカ大陸の北部海岸、カナダ・アラスカあたりに漂着しはじめたことを我々は知った。漁船が回収・送還され、サッカーボールが持ち主のもとに送り届けられ、どうしてそんなことになったものかバイクまでが救われたりもした。
 これから先、まだなにが起きるかも知れない。人里とおく離れた岸辺に、どんな奇跡や奇態があるかも知れない。
 アメリカではCNNが、〈3.11〉からひと月後には、この〈瓦礫の行方〉のシュミレーション映像を報じたという。
 瓦礫は今後三年から五年をかけ、一部は亜寒帯循環の流れに乗ってニッポンに舞い戻るかも知れない。が、大半は北赤道海流、北太平洋循環の流れに乗って、いずれ最後は“太平洋ゴミベルト”と呼ばれるいわば海洋ごみだまり海域に集まり、そこで長い時間をかけて朽ち果てるのを待つことになるだろうという。
 

 “宇宙の奇跡”とさえいわれる“水の惑星”地球が、じつはすでに見た目ほど美しくはない、汚されちまった哀しみに充ち充ちていることは、まちがいない。
 「まだ、だいじょうぶ」なんて、気やすめにもならない世迷言だと誰もが気づいてはいる。ただ、現実には日々の生活に流されていくばかりだから、「なるべく汚さないように気をつけるようにはしているつもりなんですが…」小声でそっと申し開くしかないのだ。


 レイチェル・カーソンが『沈黙の春』(1962)で環境汚染に警鐘を鳴らしてから半世紀。
 大地と水からはじまった汚染は、とうぜん川から海へと広がる。その間に食物連鎖などを通して残留性化学物質濃度は数百万倍にもなり、北極に棲むシロクマや海獣たちもその汚染から逃れることはできないことを、『奪われし未来』が伝えたのが1996年。
 かつて浜辺には、波路はるかな異郷に想いを馳せさせる『椰子の実』(島崎藤村詞)の世界だった。ぼくらガキの頃まで、貝殻を拾う浜に見る漂着物といえば流木と、せいぜい浮玉などの漁具片くらいだった。
 南の島に遊んだときには、ガラス瓶に恋人への手紙を入れて流したりした。(届け)と念じ、きっと(届く)と信じてもいた。
 それがいつのまにか、浜辺の漂着物はプラスチックごみばっかり…の時代になっていた。砂浜にも掃除が必要になった。その頃から〈岸に流れ着かず海を流離い漂うモノ〉の存在は予測されていたのが、二十一世紀を前にその事実も明らかになった。
 北太平洋の中央部、時計回りに流れる北太平洋環流の内側に閉ざされたような海域があり、ここに浮遊プラスチック破片などが異常に集中している。しかもそれら海洋ゴミのうち、船舶由来のものは20%ほどにすぎず、あとの80%は陸上から(つまりは主に川から)のものだという。海洋ゴミには残留性有機汚染物質や環境ホルモン内分泌撹乱物質)が高濃度に蓄積され、アホウドリやウミガメの体内を汚染する。漁網に絡まって死ぬばかりではないのだ。こんな海域が大西洋にも、日本海にも…世界中の海にあるという。


 〈3.11〉大震災の流失瓦礫も、いずれこの“太平洋ゴミベルト”に大量に合流することになるのだろう。
 それを放置することが、さて許されるかどうか。またまた〈想定外〉のことになるやも知れない。そのときニッポンはどうするのか。


 「金は天下のまわりもの」というけれど、その〈まわる〉輪に入らなければけっして回ってはこない。ぼくにはそんな輪っぱ縁がないらしいから、いつも外れっぱなしでいるけれど、ときたま無性にザクッと金の欲しくなることがある。
 一度は青春時代、気象庁の定点観測船が一隻ほしかった。太平洋の真っただ中にとどまって気象の観測にあたる、これほどステキな孤独世界はまたとなかろう。
 そして二度目が、こんどの壮大“太平洋ゴミベルト”観察。だれもツアーなど企画してくれそうにないから、やっぱり自前の船で行くしかない……。


 島の北側、標高235メートルの亀山へ。途中なんの作業か、ボランティアたちの姿が見られた。
 亀山山頂からの眺めは、対岸、唐桑半島からその向こうへとつづくリアス式海岸の眺望、雄大でよかった。
 この島にも「くぐなりはま」がある。牡鹿半島の方は「十八成浜」、気仙沼大島の方は「十八鳴浜」、どっちにせよキュッ(9)キュッ(9)の洒落。
 その鳴き砂の浜へは亀山からも行けたが、ここ数日の天候が不順であったこと(雨などで砂が湿っていると鳴かない)と、道がきつそう(この日のエネルギーすでに払底)だったのでやめにしておいた。
 この日の泊りは、休暇村気仙沼大島。
 ここと休暇村宮古の二つは大震災からずっと、避難所あるいはボランティア宿舎の役割を担ってきていたから、一般の宿泊が再開されたのは最近になってから。
 宿泊プランにも名残りの「ボランティア・復興事業」利用者向けというのがあったので、それでお願いしておいた。
 それでも簡素ではあっても質素にすぎはしない、食事も旅なれた身には充分な内容だった。
 贅沢を通り越して馬鹿げた豪勢が〈もてなし〉ではない。