どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

一年後の被災地巡礼(3)   −女川原発・猫の島・奥松島−






 3月27日。
 小瀬戸のすぐ向こうの、金華山に別れを告げて発つ。渡船が復活したらまた来ようと思う。
 牡鹿半島の背中を抜ける“コバルトライン”はまだ閉鎖中で、やむなく昨日きた西岸の道を三分の一ほど戻ってから東岸を目指す。
 西岸からの岐れ道際の浜で、収獲してきたばかりのワカメを、春休み中の子どもたちも交え家族総出で舟から揚げている姿に出逢った。わずかながら、ふだんの暮らしぶりの偲ばれる風景に心もち和む。


 通行止め中のコバルトラインを越え東岸に下ると、また風景が荒れてガサガサとこわばったものになる。
 遮るものなく一望できてしまう、攫われ尽くし白茶けた地面の広がりのなか、動くものといえば土埃をあげて走るダンプ一台きり。市街地を出外れたところではたいがい、ほとんどがこのありさまだった。とりあえず道普請だけでもしておきましょうかね、というふうに…。
 この印象はぼくの、都会人特有の性急さゆえだろうか。田舎ではもっとゆっくりと時が流れる、とでもいうのか。復興はこの方針で、というしっかりした思案なり計画はあるのだろうか。ゆきあたりばったりでないことを願うばかりだ。


 谷川浜祝浜の外れに八幡宮を祀る小社があり、石段を上がった高みからは、廃墟のように閑まった入江と集落が望め、小規模な燃料タンク基地の跡だろうか、円い台座の連なりも見られたが…。
 この浜でものこったのは段上の社だけ、上り口にあったらしい何かの碑は、倒れて砂を被っていた。
 人の気配は、ざっと見わたすかぎりない。


 女川原子力発電所には、工事関係や資材搬入と思われる大型車の出入りが頻繁だった。
 伝聞では、ここはなんとか一応、事故にいたることなく原子炉の運転を停止、ことなきをえた。
 結果、最多360人の被災者を受け入れる避難所にもなっていたという、福島原発との差はけっして小さくない。
 原子炉爆発をおこした福島原発より震源近くにありながら、危うく難を免れえたのはどうやら、福島より高い海抜に整地・建設されたことにつきるようだ。
 過去、歴史的にたびたび大きな津波被害を受けてきた三陸沿岸ゆえの、防災・危機意識のちがいもあったろう。
 そもそも……。


 制御きわめて困難で、まねく結果は底も知れない、いったん暴走したらもはや人の手に負えない原発
 その怖れを承知で不安をひた隠しに、ついにひきかえす勇気をもてなかった科学者たちが、もたらしたその重大な結果、冬山での遭難のようにじぶんたちの死だけですむならまだしもだ。
 「だいじょうぶ安全です」という戯言〔たわごと〕に騙された方もわるい、として。この災厄仕掛けの危険な絡繰〔からくり〕の、こんどの深刻な始末をまのあたりにしてもなお、縋りつこうとする利便てなんだろう。ぼくたちニッポン人はいつから、破滅してもシラをきりとおすほど無恥になったろう。
 ましてやこの国は、環太平洋巨大火山地震帯でも一番に危なっかしい、プレート境界迷路のぐらぐら位置にある。けっして手をそめてはならない“核開発”ではないか。
 さらにいえば、「人間が自然を征服などできはない」のは、そこが生命の母なる胎内であるからだ。攻め滅ぼせば癌細胞のごとくみずからも死滅する。
 しかも、そんな地球の大自然とて宇宙スケールから見れば、ほんの高分子のひとつほどにすぎない……。


 女川原発のPRセンターは休館中。告知は「震災の影響」ということだったが、見た目にさほどの痛みはなく、どうやら〈遠慮〉の気配だった。
 夏は海水浴客で賑わうらしい、近くの浜に下りてみたかったが、道を修復中だったので遠慮する。
 道端に「原発反対」の〈立て看〉があったが、ぼくが見かけたのはその一枚きり。地元の人の胸中は複雑なのが知れる。


 女川の町では、被災地の「放課後学校」として報道されたボランティア学習支援活動、〈向学館〉の様子を知りたいと思った。が…訪ねた女川第一小学校は、広くもない校庭に仮設住宅がぎっしりと並ぶばかり。寒さのなか人影もなくては、どうにもならなかった。
 巡礼のつらいところは、夕刻・夜間の行動がままならないこと。どうしても、じぶんの身を休めることの方が先になってしまう。


 国道398号を万石浦沿いに、石巻市街へと戻る。
 併行する石巻線は、女川−渡波〔わたのは〕間がいまも運休中。
 このあたりは津波に洗われただけでなく、地盤沈下の被害も深刻だった。


 旧北上川河口の船着場から、網地島ラインの船便で田代島に渡る。
 おなじ被災地ではあるけれど、“猫の島”という事情だけでも巡礼者はなにかしら救われる想いで、訪れてみたかった。
 詳しい話はまたのことにするが、わが家にはかつて7匹の猫がいたことがある。
 かみさんは完璧に猫オンナだし、ぼくは生きものなんでも派だけれども、ニャンコにはニャンとも肉球なのだ…。
 ライフラインの船に乗客は少なかったが、幼子を抱いた若い母親に付き添いの祖母、という微笑ましい姿もあったりした。
 
  
 石巻から45分ばかり。田代島の仁斗田港に下りてみると岩壁に待ちうけていたのは、船会社の係員以外はみな老人ばかり。
 「石巻や牡鹿なんかにくらべりゃ、なんぼか助かったようだなぇ」
 島は外洋を背に、港は牡鹿半島側に守られてある。
 「あぁ、そりゃ、怖かったこたぁ怖かったけどもさ…」
 こもごも語る爺っちゃたちは、港にさしたる用はなかったらしい。
 「あれだけ…もうじき取りに来てくれれば、片がつくわぃ」
 港の一画に積み上げられた瓦礫の山の、陰からあらわれた猫が一匹。挨拶は無声の大欠伸だった。


 漁の島には釣り人の訪れも多い。漁師もそうだが、釣り人も一人ぼっちの境地に没入するから、気の紛れる相手に寛容で、雑魚や外道をくれてやる。だからどこでも、好ポイントの磯には野良猫が多い。
 「猫跨ぎ」という言葉には、(魚好きのネコが無視して跨いで行く)まずい魚という意味と、(魚好きのネコも諦めるほどきれいに食べてしまう)うまい魚という意味と二つあり、どちらにしても猫の魚を味わう味覚の半端でないことが評価されている。
 そんなことが背景にあってだろうか、この島でも猫はだいじにされ、野良も自然に繁殖して増え、島のもうひとつの港、大泊港との間のほぼ中央あたりには「ねこ神社」が祭られてある。
 しかし…人口よりニャンコの数の方が多い「猫の島」というほど、とくにネコが多いとは思えなかった。ぼくたちが島にいたのは、鮎川から来る帰りの船までの1時間半ほどでしかなかったけれど、あちこち散歩して出逢ったネコの数は20匹に満たなかった。
 歩いた道筋が的外れだったのか、季節か時間か日のめぐりあわせかが悪かったのかは、知らない。毛色の汚れて艶もない野良が多いことは確かだったが、だいじにされて「多くなりすぎて困る」との声もある…というほどでもなさそう。これくらいのネコの数なら、ほかにもあるだろう。
 これ思うに、よくあるマスコミの仕掛けの所為らしい。テレビとか雑誌なんかにワァキャァ取り上げられてるうちに、定着してしまったものに違いない。
 田代島もいま、夏は若者や家族連れで賑わう海のレジャーとキャンプの島なのだ。
 季節はずれのいまは、ヨソユキでない素顔のままということだろう、ネコたちも島の人たちもたがいに無関心でいた。


 仁斗田港の裏側にあたる浜を抱く高みに、祠らしいものを見つけて上った。
 そこには、東の海を望む崖っぷちに3つの祠と鳥居が傾ぎかかっており、ひとつは金毘羅さん、ひとつは五頭天王、もうひとつは銘が読めなかった。
 足もとはおぼつかないながら、ちょっと海を拝むにはよさそうな風情で、ぼくはごく自然に「浄土遥拝」を想った。
 古い時代、神仏混淆〔こんこう〕のにおいがする。ぽくはその辺の由来などには面倒無縁の者だが、阿弥陀如来西方浄土に対して薬師如来の東方浄土(もうひとつは観音菩薩の南方浄土)があることは知っている。そして、西方浄土が山なら東方浄土は海に想定され、日本の沿岸の衆生の多くは、とうぜん海の浄土を信仰し拝んだ…。
 猫よりも、こちらの方が印象にのこる田代島。
 いや、もうひとつ、港で船待ちの間に不思議な光景に出逢った。シニアカー(足腰の弱った老人用、電動スクーターみたいなやつ)にまたがった爺っちゃ、スルスルと岸壁に登場。ヨッコラショと降り立つと器用に小舟に乗り移り、舫〔もやい〕を解いて港を出て行った。それこそアレヨという間のできごと。
 解説はいるまい、この光景、頭に思い浮かべてみてほしい。おかしいでしょ、なんかヘンだよね。
 きっと孝行な息子か娘が、年寄った親爺のために買ってあげたものだろう……ワカル、それはよ〜くワカルのだが、しかし……。


 帰り着いた石巻港に近い河口の岸には石巻市立病院が、一年前に報道された震災当時のままの姿で途方に暮れていた。


 今夜の泊りは奥松島。
 松島のいまを、やっぱり見ておかねば…と思いなおしたからだった。
 震災後、どこでも遅々として進まない再興の動きの中で、松島の復旧がめざましく早く印象づけられた。
 地元関係者が一致団結して精力的に動いたこともあったろう、とにかく松島観光協会の再出発宣言は衝撃的でさえあった。
 ぼくは松島の景を、島めぐりの船からも眺め、観光ハイヤーで高みからの大観も眺めていた。
 瑞巌寺を見学し、塩釜の街なども歩いて、豊かな感じを受けてもいた。
 だから、なにげもなく(松島は大丈夫みたいだな)と思っていたのだけれども…。


 (ちがうじゃないか、ひどいじゃないか)
 かってな思い込みを裏切られたようなものだった。
 東松島市に入って鳴瀬川を渡り、野蒜海岸に出ると絶句するしかなかった。
 この浜辺には、かつて遊んだことがある。仙石線に「野蒜〔のびる〕」という駅名を見つけたときからの、お気に入りだった。艶やかにすんなりと伸びた若緑の葉が、風に光るかのようなイメージだった。イメージにふさわしい浜だった。
 その想い出の浜が、無くなっていた、まったく別物になっていた。あるいは沈下し、あるいは捲れ上がった道、一筋だけが黙々と続いていた。
 仙石線も現在、高城町−陸前小野の間が不通のまま。
 (金が足らんのか…)不意に思った。足らんなら足らんと、いわんか。緊急事態宣言して、さっさとやらんか。もったいつけるなよ。
 (義援金はどうしたんだ…)叫びたくなった。国民からの、諸団体からの、諸外国からの、総額はいくらになるのか知る由もないが、かなりの高額に達していたはずだろう。使ったのか、ちゃんと生かして使っているのか、それともてんで使い方を知らないのか。


 奥松島は、松島湾を抱くように張り出した北の小半島が切れて宮戸島となり、その島も溺れ谷が半ば溺れのこったような不安定な地形。海水面がもっと嵩上げされれば、完全に松島多島海の一部になることだろう。
 なにしろ腹立たしくなるばかりの愚図霧中な景色に、ぼくはたびたび道を失い、さんざ行き迷ってついに怒り心頭に発したところで、やっと暮れなずむ月浜に辿りついた。


 民宿山根は、目の前が家族連れに適した海水浴の小さな浜。夏は来客の車であふれるはずの駐車場が、いまは仮設住宅団地になっていた。
 民宿の多くも流され、山根ほか数軒の、高みにあったものだけが辛うじてのこった。なんとか再開をはたしたものの、隣接仮設には家を失った同業仲間の人たちもいる。その人たちのことを思うと、つらい立場でもあるようだった。
 松島は島の数多いことが津波の消波に幸いしたものとばかり、ぼくは思っていたのだが、とんでもない、ビリヤードのクッションさながら、あっちで撥ね返りこっちで撥ね返った波は複雑に勢いを増し、思わぬところまで浸水の被害をおよぼしたという。おかげでこのあたり一帯は、左右から襲いかかる津波に取り巻かれていっとき〈孤島〉になったらしい。
 浜の背後の集落跡は「ボランティア組織が集中的に活動してくれたおかげ」で、すっかり瓦礫の処理もすんでいた。
 集落の奥まった高みには、天照皇大神〔あまてらすおおみかみ〕を祀る五十鈴神社(伊勢神宮内宮の系列)。津波もここまでは来なかった境内には、狭いながら集落の多くの人々が避難した。


 (……うむ……)やっぱり、そうか。
 こんどの巡礼でもうひとつ、確かめておきたかったのは、このことだった。
 こんどの、千年に一度とかいわれる稀に見る大津波で、ごくわずかな例外をのぞく大多数の神社が流されずにのこった。かずかずの調査、報告がそれを雄弁に物語り、証明もしていた。
 しかもどうやら、崇め祀る神社は昔からひときわ高みにあるものだった、というような素朴なレベルのことではないようなのだ。
 過去にあったことに学び、歴史と経験を教訓に、「ここまでは(津波が)来そうにない」「ここなら助かる見込みがある」場所が、ちゃんと選ばれていたらしい。
 なかには「ここより下に住んではならぬ」と教え戒〔いまし〕めた例さえある。
 それを無常の時が、智慧が技術が、工夫が便利が、いつのまにやら忘れ去らせた。結果、新時代の新感覚に酔い痴れ、驕りきった現代人の〈想定〉はお笑い草の貧しさだった……。


 いっぽうでぼくには、もうひとつの想いがある。
 それは、これら難をのがれた古社群とは対照的に、被害をまともに受けることになった寺々のことだった。
 あまりにも多くの寺院が堂宇を失い、墓地を流されたのは、なぜか。
 いうまでもない、たいがい神社より低い処に在ったからだが……。
 それは、新来のゆえに思うような立地をえられなかったためか、あるいは常在衆生とともにある仏教の精神によるものであったか、ということだ。
 このぼくの想いは、さて、やはりお笑い草の類いにすぎないのだろうか、それとも重要なテーマに至り着けるものなのだろうか。


 夜半にオシッコに起きたとき、洗面所わきの窓が仄明るいのでそっと開けて見ると、仮設住宅の一つ二つに眠れない夜をすごす灯火があった。